讖緯説(シンイセツ)

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讖緯説

漢字・読みシンイセツ
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概要

まとめ
●讖緯説は大きな革命が二十一回目の辛酉の年…1260年に一回来るという考え。
●記紀神話の天皇の年齢を遡ると、神武天皇の即位が紀元前660年となる。
●これは推古天皇の時代の601年の辛酉から遡って設定したからではないか?と言われている。
●紀元前660年のために、初期天皇の年齢がカサ増しされた。だから100歳以上がいるのではないか?と言われる。
●しかし、なぜ601年が基準になるのか分からない。
●601年が特別に革命的な時期ではない。
●仮に讖緯説を採用して神武天皇の即位が決められたとするならば、推古天皇の時に易姓革命が起きていて、王朝が違うと主張することになるのではないか。本当に讖緯説を元にして神武天皇即位の年が決められたのかは怪しい。
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物語・由来

讖緯説は「大きな革命が1260年に一回来る」という陰陽の説で、前漢・後漢で流行した。陰陽・天文の説ながら、「易姓革命」とも関係してくるため、ときの権力者はこの説を弾圧する傾向があった。実際、この讖緯説を利用して前の王朝を倒した例がある(新の王莽・後漢の光武帝)。

讖緯の「讖」は「予言」のこと。「緯」は儒教の緯書で、本来は別のものですが「讖緯」で「予言の書」という意味となりました。

つまり「天の意思」に則って、前の王朝を倒すという風潮を作るのに「讖緯説」が利用された。辛酉の年に革命が起きるとされた。とくに21巡の1260年に一回に大きな革命があるとされた。とか。

ちなみに中国ではあまり重要視されなかった。むしろ日本でももてはやされた。
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日本と讖緯節

日本では平安時代に三善清行がこの讖緯説の専門家となり、901年の辛酉の年に、「縁起が悪い」ので元号を「延喜」と変えることを進言した。
古事記・日本書紀と讖緯説
神武天皇から応神天皇・仁徳天皇あたりまでの年齢が異常に長い(100歳以上が多い)ことから、記紀にこの讖緯説の影響があるのではないか?というのがよくある説。

つまり推古天皇の601年から1260年前を神武天皇の即位の年にした…(記紀をまともに採用すると神武天皇の即位は紀元前660年になる)というもの。日本に干支が入ってくる以前であるはずの天皇でも日本書紀では干支の記述があるので、これは後から計算したか、捏造(年齢の延長)の可能性は高い。
なぜ年齢を伸ばした?
讖緯説が事実とするなら、なぜ年齢を伸ばしたのか?という問題が発生する。皇位の長さを記述するには、「年齢を伸ばす」か「天皇を増やす」しかない。年齢を伸ばした、ならば神武から応神までの天皇は全て実在していると考えるのが自然となる。
讖緯説は妥当か?
何事もないように推古天皇の辛酉を基準として…とありますが、なぜ推古天皇の辛酉を基準とするのか分からない。辛酉革命はようは「王朝が変わる」ことです。では推古天皇で「王朝が変わった」か?というと、そんなことは無い。それに「推古天皇を基準にして」ということは、古事記や日本書紀で「推古天皇以降は別王朝」と白状するのと同じです。それでは古事記や日本書紀の一大テーマである「皇統」が崩れ去ってしまいます。この讖緯説自体が、数字のトリックではないかと思います。
もうひとつ。推古天皇が即位したのが593年。「推古天皇を基準として…」としている年が601年の辛酉。なぜ即位して8年ほど経った年を基準とするのか?? もちろん辛酉は60年に一回しか来ないのだから、ピッタリと来るわけない。……いや、ならば尚更、推古天皇である必要はないのではないでしょうか? そもそも讖緯説というのが「年齢がおかしい」というところから始まっているのです。でもこの年齢も2倍歴だと考えれば、問題ないのです。
讖緯説は数字のトリックというか、皇国史観の反動の一種なんじゃないかと思うのです。
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