皇后と皇子、任那の新羅への恨み

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垂仁天皇(二)皇后と皇子、任那の新羅への恨み

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原文

元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子卽天皇位。冬十月癸卯朔癸丑、葬御間城天皇於山邊道上陵。十一月壬申朔癸酉、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲壬辰。

二年春二月辛未朔己卯、立狹穗姫爲皇后。后生譽津別命、生而天皇愛之、常在左右、及壯而不言。冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于国。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、賜任那王。然、新羅人遮之於道而奪焉。其二国之怨、始起於是時也。

現代語訳

垂仁天皇の即位元年 春正月2日。皇太子は即位しました。
冬10月の11日。御間城天皇(ミマキスメラミコト崇神天皇)を山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬りました。

11月の2日。皇后を尊び皇太后としました。その年は太歲壬辰です。

即位2年の春2月9日。狹穗姫(サホビメ)を皇后としました。皇后は譽津別命(ホムツワケノミコト)を生みました。天皇はその皇子を愛し、常に左右(モトコ=側に)に置いていました。大きくなりましたが、言葉を発しませんでした。

冬10月纒向(マキムク)に都を作りました。これを珠城宮(タマキノミヤ)といいます。

この年、任那人の蘇那曷叱智(ソナカシチ)が
「国に帰りたい」と言いました。
先代の崇神天皇のときに朝廷に来てからまだ帰っていなかったのだろうか。そこで蘇那曷叱智(ソナカシチ)にたくさんの賞与を与えました。赤絹(アカキヌ)を一百匹(ヒトモモマキ)を持たせて任那(ミマナ)の王(コキシ)に遣わせました。ところが新羅人が道中に奪ってしまいました。この二つの国の恨みはこのとき初めて起こりました。
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解説

ホムツワケ
古事記にも「ホムチワケ御子は言葉を発さなかった」という話があります。

任那と新羅
日本は任那日本府を設けて朝鮮半島を支配していたよう。ところが、その後、任那を新羅に奪われ、仲良くしていた百済も滅亡。百済の再興を掛けた「白村江の戦い」で「新羅・唐」の連合軍(実際はほとんど唐ですけど)に敗北し、その後は日本に引きこもります。
古事記・日本書紀は引きこもってから書かれたものですから、「新羅憎し」というのがあって新羅を悪く書いている、というのが一般的な説です。

ところでソナカシチは「崇神天皇(二十四)依網池・苅坂池・反折池を造る(日本書紀)」で任那から派遣されて以来居着いていたわけです。その時は新羅のことを「鶏林」と書いていました。鶏林は三国史記によれば「金氏」の途中で新羅になった、とあるので、垂仁天皇の時代に変化があったのかもしれない。

ちなみに新羅の4代王昔脱解(ソクタレ)は倭人で海を渡ってきたとされ、重臣の「瓢公」も倭人とされます。三国史記によると、昔脱解に命じられて林から拾ってきた金王朝の始祖の「金閼智」は神話の上では「拾い子」ですが、当然ながら昔脱解の子と考えるべきでしょう。というわけで、新羅は倭人と非常に関係が深いわけです。
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