海石榴の椎

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景行天皇(十)海石榴の椎

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原文

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

現代語訳

天皇は群臣(マヘツノキミタチ)と話し合い、言いました。
「今、大勢の兵を動かして、土蜘蛛を討とうと思う。
もし土蜘蛛が我らの兵(ツワモノ)の勢いを恐れて山野に隠れたら、必ず後に憂いとなるだろう」
すぐに海石榴樹(ツバキノキ)を採って、それを椎(ツチ=槌=工具)を作って兵(ツワモノ=武器)を作りました。それで勇猛な卒(イクサ=兵士)を選んで、兵(ツワモノ)の椎(ツチ)を授けて、山を穿(ウガ=掘る)ち、草をはらって、石室(イワムロ)の土蜘蛛を襲って、稲葉(イナバ=大分県・熊本県の大野川の上流の飛田川のこと)の川上で破り、すべての党(トモガラ)を殺しました。その血が流れて、踝(ツブナキ=足のくるぶしのこと)にまで達しました。その時の人は、その海石榴(ツバキ)の椎(ツチ)をつくった所を海石榴市(ツバキチ)と言いました。また血の流れたところを血田(チタ)といいました。

打猿(ウチサル)を討とうとして禰疑山(ネギノヤマ)を通りました。そのときに賊虜(アタ=敵族)の矢が横から山へと飛んできました。官軍(ミイクサ)の前に矢が流れてくる様子はまるで雨のようです。天皇は一旦、城原(キハラ)に返って、水上(カワノホトリ)で占いをしました。それですぐに兵を整えて、まず八田(ヤタ)を禰疑野(ネギノ)で討ち破りました。すると打猿(ウチサル)は勝てないと思い、「服(マツロ=服従)います」と言いました、しかし、天皇は聞き入れませんでした。それで(打猿の仲間たちは)皆、潤谷(タニ)に落ちて死にました。
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解説

景行天皇といっても、群臣に命ずるのではなく、話し合って決めるあたり、やっぱり日本的。和・・・つまり、「みんなで決める」という大前提がここでも生きています。

しかし崇神天皇からは「儒教」の影響があるはず。儒教は「徳」がある人間が国を統治し、人の上に立つものです。つまり、上の人間は下に命令するものだし、下の意見を聞く必要はありません。なにせ上の人間は「徳があるから、上に立っている」のだからです。

そう考えると、日本は儒教の影響を受けながらも、日本的な世界観とその他の世界観をつぎはぎに構成しているということではないか?と思いますね。

ところでここ景行天皇の九州征伐で出てくるネギノヤマ・ネギノ・キハラといった地名はどこのあたりかはっきりしていません。
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