御木国の地名説話

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景行天皇(二十)御木国の地名説話

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現代語訳

(即位18年)秋7月4日。筑紫後国(ツクシノミチノシリノクニ)の御木(ミケ=福岡県三池郡・大牟田市)に到着し、高田行宮(タカタノカリミヤ)にいました。その時に倒れた木がありました。長さは970杖(ココノホツエアマリナナソツエ=1750m?)あります。百寮(ツカサツカサ=多くの役人)はその木を踏んで通っていました。その時の人は歌を詠んで言いました。

朝霜の 御木のさ小橋
群臣 い渡らすも 御木のさ小橋
歌の訳
朝霜が降りる中、聖なる木の橋がある。
群臣が、渡っているよ。
その聖なる木の橋をさ。


それで天皇は言いました。
「これはなんの木だ?」
一人の老夫(オキナ)がいて言いました。
「この木はクヌギです。
昔まだ、倒れていないときに、朝日の光が当たって、杵嶋山(キシマノヤマ=現在の佐賀県杵島郡・武雄市の標高342mの山)を隠しました。夕日の光に当たって、阿蘇山(アソノヤマ=熊本県の山・標高1592m)を隠しました」
天皇は言いました。
「この木は神(アヤ)しき(=神聖な)木だ。この国を御木国(ミケノクニ)と呼べ」
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解説


歌はどうやら宮廷の歌謡で、「毎日役人が橋を渡って仕えてる様子」を表しています。実際にこの神木を歌ったのかは分からない、というか無関係と思われます。
筑紫後国
ツクシノミチノシリと読みます。よく備前とか備中とか備後とか、豊前・豊後という「前・中・後」という地名を目にします。この前後というのは、「道」の前後という区分けです。では道ってのは何?ということになります。

崇神天皇の時代に四道将軍があちこちに領地拡大にと出向いているように、古代では「道」が土地と土地をつなぐ大事なものでした。そのうち、道でつながっている地域を「道」という区分で分けるようになりました。東海道・南海道・山陽道・山陰道などです。現在だと電車や交通道路の「道の名前」だと思いがちですが、あれはこれらの「道区分」に引っ掛けた名前です。つまり「道」ってのは、アメリカでいうところの「州」みたいなものです。県のさらに上のグループです。この唯一の名残が「北海道」です。

「道」というグループは「道」で繋がっているから「道」というグループでくくってあるんですね。焼き鳥を「1串・2串」と数えるのと一緒です。それで、その道(焼き鳥なら串)の機内側を「前(ミチノクチ)」といい、機内と反対側を「後(ミチノシリ)」と言いました。それがここでの「筑紫後国(ツクシノミチノシリノクニ)という長ったらしい名前の意味です。

御木国
ミケの「ミ」はオオヤマズミやアマテラスオオミカミの「御」と同じで本来は「神」という意味です。よって「神木国」と書いても同じ意味になるはずです。

史実かどうか?は問題ではない
実際に1700mの木が立っていたということはあり得ない。ここで本当か嘘かについて考えるのは意味がない。大事なのは「高い木を神格化する文化」が九州にあったということ。というのもこの地名説話は本来は天皇とは関係なかったはず。記紀編纂の時か、長い大和朝廷の時代の中で取り込まれたか、ともかく、そうして融和していった。

ただ、九州に「高い木を神格化する文化=大樹信仰」があったのだろうと。でないとこのような地名はつかない。

高い木を神格化したものというと「高木神(=タカミムスビ)」がある。高木神はどう考えても高天ヶ原の総元締めのような存在であることを考えると、ヤマトの文化の根幹は九州にあったと考えたほうがいいのではないかと。
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原文

秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後国御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志

爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是国宜號御木国。」
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