斎宮・五百野皇女と武内宿禰の東国視察

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景行天皇(二十三)斎宮・五百野皇女と武内宿禰の東国視察

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現代語訳

即位19年の秋9月20日。天皇は日向(ヒムカ)から(大和へ)帰りました。

即位20年の春2月4日。五百野皇女(イホノノヒメミコ)を派遣して天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀らせました。

即位25年の秋7月3日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)を派遣して、北陸(クヌガノミチ)及び東方(アズマ)の諸国の地形(クニカタ)、また百姓(オオミタカラ)の消息(アルカタチ)を視察しました。

即位27年の春2月12日。武内宿禰は東国から帰ってきて報告しました。
「東の夷(ヒナ)の中に日高見国(ヒタカミノクニ)があります。その国の人は男も女も髪を槌のような形に結い、体には文様(=刺青)があります。性格は勇ましく、怖いです。これらを蝦夷(エミシ)といいます。また、土地は肥えていて広いです。打ち倒して取るべきです」
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解説

五百野皇女
イホノノヒメミコにアマテラスを祀らせています。母親は水歯郎媛(ミズハノイラツメ)です(参考:景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女)。

「ミズハ」は「ミズハノメ」という神がいるように水の神を表しているのでしょう。稲穂の皇統である景行天皇と、水の神の水歯郎媛の間に生まれた子が五百野皇女(イホノノヒメミコ)。その彼女に太陽の神を祀らせる、というのは理にかなったものです。というか理にかないすぎで、創作っぽい。
蝦夷
髪を槌の形に結って、体には刺青……
髪を槌の形に、というのは大和朝廷の人がやっていたという「美豆良(ミズラ)」と何が違うのか? 多少でも違うのか? また体に刺青というのも、これは魏志倭人伝にあった「倭人」の特徴です。魏志倭人伝に描かれた倭人の「刺青」は魚に襲われないようにするための呪文ですが、それが蝦夷でも成人儀礼としてか、また呪術としてか残っていてもなんら不思議ではありません。
蝦夷はよく「縄文人」と言われます。実際そうだったんでしょう。その縄文人はどこから来たか? 当然、九州です。わたしは蝦夷と九州にあった熊襲の文化はかなり似ていたんじゃないかと思います。もしくは同根の文化だったんでしょう。

大和朝廷は文字を手に入れ、古事記や日本書記という書物を残すことに成功した。そして蝦夷や熊襲の文化は、これらの書物の中でしか見られないものになってしまった。だから「蝦夷」=「熊襲」=野蛮、という蔑んだイメージだけが先行してしまう。だけど、実際は違っていたんじゃないか? というか違っていて当然。むしろ熊襲や蝦夷は、文化的に進んでいた。いや、もっと言うなら、熊襲や蝦夷の文化は大和と非常に似ていたんじゃないか?・・・または大和朝廷は熊襲や蝦夷の文化を吸収することで発展した。両者のよい文化を吸収して発展したのではないかと。立地から考えても決して無茶な話では無いと思うのです。
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原文

十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。

廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大神。

廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。

廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。
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