德勒津宮への巡狩と熊襲の反抗

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仲哀天皇(五)德勒津宮への巡狩と熊襲の反抗

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現代語訳

(即位2年)3月15日。天皇は南国を巡狩(メグリミソナハ=視察)しました。皇后と百寮(ツカサツカサ=官僚)を留めて、側に従っている2、3人の卿大夫(マヘツキミタチ=家臣たち)と官人(ツカサツカサ)数百人で、軽く出かけました。紀伊国(キノクニ)に到着して、德勒津宮(トコロツノミヤ=和歌山県新庄市?)に滞在しました。このとき熊襲が叛(ソム)いて朝貢(朝廷への貢物)をしませんでした。天皇はそれで熊襲国を討とうとしました。すぐに德勒津(トコロツ)を出発して、浮海(ミフネ)して穴門(アナト=山口県豊浦郡)に行きました。その日に使いを角鹿(ツヌガ)に派遣し、皇后に詔して伝えました。
「すぐにその津から出発して、穴門で会おう」
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解説

熊襲の反抗
崇神天皇の時代に勢力範囲を広げたヤマト朝廷は景行天皇の時代に日本武尊という英雄によって九州から東国(関東・東北)という広範囲の勢力になります。しかし、この勢力は決して「領地」ではなくて、貿易圏でした。そこにいる国々は貿易をすることで「利益を共有」していたわけです。だからヤマトは決して「王」ではなく、利益を調整する存在でした。

この大きな貿易圏にはある弱点がありました。それが関門海峡です。関門海峡を塞がれると、鹿児島・沖縄・台湾から広がる東南アジアやインドといった地域とのつながりが切れ、朝鮮との貿易も出雲や北陸に限られるようになります。九州の制圧は九州以外のほとんどの地域にとって、生命線といっていいものでした。

同時に九州から見れば、大和朝廷という強大になりつつあったライバルを弱体化し、利益を独占するにはこの関門海峡を塞ぐべきなのです。景行天皇の時代からの熊襲との争いの中心は、この貿易航路の奪い合いなのでしょう。
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原文

三月癸丑朔丁卯、天皇巡狩南國、於是、留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之、至紀伊國而居于德勒津宮。當是時、熊襲叛之不朝貢、天皇於是、將討熊襲國、則自德勒津發之、浮海而幸穴門。卽日、使遣角鹿、勅皇后曰「便從其津發之、逢於穴門。」
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