神功皇后(一)出自と夫の死後の対応

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神功皇后(一)出自と夫の死後の対応

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現代語訳

氣長足姬尊(オキナガタラシヒメノミコト)は稚日本根子彥大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト=開化天皇)の曾孫の氣長宿禰王(オキナガスクネノオオキミ)の娘です。母を葛城高顙媛(カツラキノタカヌカヒメ)といいます。足仲彥天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト仲哀天皇)の即位2年のときに皇后になりました。幼くして聡明で知恵がありました。容貌が壮麗でした。父の王(=氣長宿禰王のこと)は(娘を)あやしんでいました(=霊位が強く、人間ばなれしていると思っていた)。

仲哀天皇)即位9年春2月に足仲彥天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)が筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)で崩御しました。そのとき、皇后は天皇が神の教えに従わず早く崩御したことに心痛めて、祟った神を知って、財宝の国(=朝鮮半島)を求めようと思いました。それで群臣(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ=官僚)に命じて罪を祓い、過ちを改めて、代わりに斎宮(イワイノミヤ)を小山田邑(オヤマダノムラ)に作りました。
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解説

神功皇后の出自
第9代開化天皇のひ孫の氣長宿禰王(オキナガスクネノオオキミ)の娘が神功皇后。開化天皇から見ると玄孫で5代目となります。この5代というのが大事で、継体天皇が応神天皇の5代目だったように、6代目からは後継としては発言力がなくなるのです。この考えは儒教が関係しているとは思うのですが、勉強不足でハッキリしません。
古事記との相違
開化天皇の子の彦坐王(ヒコイマスオウ)、その子の山代之大筒木真若王(ヤマシロノオオツツキマワカノミコ)、その子の迦邇米雷王(カニメイカヅチノミコ)、その子が氣長宿禰王(オキナガスクネノオオキミ)となり、その子の神功皇后は玄孫の子となり、6代目です。

日本書紀では神功皇后は玄孫ですが、古事記では玄孫の子という違いがあります。日本書紀では氣長宿禰王以前の血統が書かれていないのは、「6代目」であることを隠すためではないかと、推測。
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原文

氣長足姬尊、稚日本根子彥大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也、母曰葛城高顙媛。足仲彥天皇二年、立爲皇后、幼而聰明叡智、貌容壯麗。父王異焉。

九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。
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