迹驚岡の大磐

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神功皇后(六)迹驚岡の大磐

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現代語訳

皇后は神の教えの験(シルシ)があると理解して、さらに神祇(アマツカミクニツカミ)を祭(イノ)り祀り、自ら西の方を討とうと思いました。そこで神田(ミトシロ)を定めて作りました。そのときに儺(ナ=福岡県博多地方)の河の水を引いて、神田を潤そうと思って、溝(ウナデ=水路)を掘りました。迹驚岡(トドロキノオカ=福岡県筑紫郡那珂川町安岡)まで掘ると、大磐(オオイワ)がふさがって、溝(ウナデ)を通すことが出来ませんでした。皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)を呼び寄せて、剣鏡(タチカガミ)を捧げて神祇(アマツカミクニツカミ)に禱祈(イノリ)を捧げて、溝を通したいと願いました。するとその時、雷電霹靂(カムトキ=雷が急に鳴ること)して、その岩を踏み裂いて、水を通しました。それでその時代の人はその溝を裂田溝(サクタノウナデ)といいました。
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解説

経緯
神功皇后は西の国である朝鮮半島を征伐する前に、まず神祇を祀ることにしました。そのために神田を作り、そこで米を作って、米を神祇に捧げる必要がありました。日本人は土地土地に神が住んでいると思っていたので、「ヤマトで祀ってるから、もう神を祀らなくても大丈夫」という考えは持ちません。

それで神田を作るために、水路を掘ることにしました。その水路が博多から引いて、福岡県筑紫郡那珂川町安岡まで来たところで岩があり、それをどうにかしようと神に祈ったら、雷が落ちて岩を割った。それでその水路のことを裂田溝(サクタノウナデ)と呼ぶようになった。というところです。

神の要素
どうやら大和朝廷は米という共通価値によって貿易を広げた「共和国家」だと思われます。この共和国家に入るには米作が必須でした。水路はそのためのものでしょう。これ以前でも米作は九州北部でも行っていた筈です。でも、暖かい海であることから漁業が強かったのではないかと思うのです。そこに米作が広がることで、生活は安定し定住するようになると、貿易による収益を得られる「大和」に参加する国が増えた…そういう文化の転換がこの時代の九州北部にあったんでしょう。

ところで、水路を通すために剣と鏡が捧げられます。個人的には剣というのは鉄製農具の象徴だったのではないか?と思います。

また雷が岩を裂き、水路を通して農業を広げるというのは、天神思想からあるではないかと思います。雷(カミナリ)は別名を「稲妻」といいます。これは雷が鳴る夏の終わりに、稲が種子をつけることから、雷が稲を妊娠させているという考えから「稲が妻」で「稲妻」になったからです。また雷の後には雨が降ります。そもそも雷(カミナリ)という言葉も「神鳴り」から来ているのです。
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原文

既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之、時引儺河水、欲潤神田而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后、召武內宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗而求通溝、則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水、故時人號其溝曰裂田溝也。
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