赤石に山陵を作る

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神功皇后(十七)赤石に山陵を作る

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現代語訳

新羅を討った明くる年(=仲哀天皇即位10年)の春2月に、皇后は群卿(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ)を率いて穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)に移動しました。それで仲哀天皇の喪(モガリ)を収めて、海路(ウミツジ)から京(ミヤコ=ここでは大和)へと向かいました。

そのとき、麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)は、父の仲哀天皇が崩御したこと、皇后が西の国を征伐したこと、また皇子(=後の応神天皇)が生まれたことを知って、密かに共謀していいました。
「今、皇后には子が居る。群臣(マヘツノキミタチ=家臣たち)は皆、従っている。必ず、共謀して幼い主(ミコ)を立てるだろう。我ら兄がどうして、弟に従えるだろうか!」
それで天皇のための陵(ミサザキ=墓)を作るふりをして播磨(ハリマ=現在の兵庫県)に行き、赤石(アカシ)に山陵(ミサザキ=山の墓)を作ることにしました。船を編んで(船を繋いで)、淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。それで兵を集めて、皇后を待っていました。犬上君(イヌカミノキミ)の祖先の倉見別(クラミワケ)と吉師(キシ)の祖先の五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)は共に麛坂王(カゴサカノミコ)に付き、将軍として東国の兵を起こしました。
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解説

墓と兵を起こすこと
墓を作るためには人間が大量に必要です。そこで墓を作ると称して人を集めて、それをそのまま兵士にしてしまう。これは壬申の乱で天武天皇もやっています。おそらく古代では墓を作ると称して兵を集めるというのは「よくある手法」だったのでしょう。
東国の意味
大和朝廷は九州南部から沖縄・台湾という交易ルートを欲していましたが、仲哀天皇の死をきっかけに諦めて朝鮮半島進出に切り替えます。朝鮮半島は「空国(ムナクニ)」と表現するほどに痩せた土地ですが、中国や中国東北部の民族との交易には必要な土地でした。
そうして大和は朝鮮半島を要衝と考えるようになりました。ということは、これまで交易を行っていた東国はないがしろにされるわけです。

おそらく、九州南部の隼人は貿易立国であり、大和朝廷には入らないといっても、大和朝廷と取引はしていたのです。そうでないと隼人も損ですから。だから隼人→大和→東国という流れはあったのです。これは隼人と落とそうと落とすまいと流れは変わりません。しかし、朝鮮半島を征伐するということは、隼人→九州北部→朝鮮半島→中国という流れが出来て、東国の存在が薄れるという恐怖感があったのではないでしょうか。なにせ山口県に豊浦宮という宮が出来ているのです。中心が大和から筑紫に移動してしまうとすれば、東国としては損失です。

そこで東国は挙兵した。
しかし、神功皇后はこのあと大和に帰ってきます。それは東国を今後も重視するよ、という政治的表明だったのでしょう。と、なると挙兵した麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)は梯子を外されたことになり、戦争はしぼんでいきます。

この後、朝鮮半島を貿易路として利用し、発展していく大和朝廷は、おそらく隼人経由の貿易を減らしていったのでしょう。これが東国への配慮だったか、仲哀天皇が侵略をして仲違いしたからなのかは、なんとも言えません。ただ、そうすることで、隼人の勢力が落ち、後々の服属につながった、と考えています。
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原文

爰伐新羅之明年春二月、皇后、領群卿及百寮、移于穴門豊浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時、麛坂王・忍熊王、聞天皇崩亦皇后西征幷皇子新生、而密謀之曰「今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。」乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石、仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王、因以、爲將軍令興東国兵。
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