常夜行く

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神功皇后(十九)常夜行く

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原文

忍熊王、復引軍退之、到菟道而軍之。皇后、南詣紀伊国、會太子於日高。以議及群臣、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮。小竹、此云芝努。適是時也、晝暗如夜、已經多日、時人曰、常夜行之也。皇后問紀直祖豊耳曰「是怪何由矣。」時有一老父曰「傳聞、如是怪謂阿豆那比之罪也。」問「何謂也。」對曰「二社祝者、共合葬歟。」因以、令推問巷里、有一人曰「小竹祝與天野祝共爲善友、小竹祝逢病而死之、天野祝血泣曰『吾也生爲交友、何死之無同穴乎。』則伏屍側而自死、仍合葬焉。蓋是之乎。」乃開墓視之、實也。故更改棺櫬、各異處以埋之。則日暉爃、日夜有別。
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現代語訳

忍熊王(オシクマノミコ)はまた軍を引いて退き、菟道(ウジ=山城国宇治郡=現在の京都府宇治市)に到着して陣を敷きました。皇后は南の紀伊国に詣でて、太子(ヒツギノミコ=のちの応神天皇)と日高(ヒダカ=木国氷高評=紀伊国日高郡=現在の和歌山県日高郡)で会いました。群臣(マヘツキミ)話し合って、遂に忍熊王を攻めることになり、さらに小竹宮(シノノミヤ=紀伊国那珂郡志野村=現在の和歌山県那珂郡粉河町長田)に移りました。

この時期、昼なのに暗くて夜のようでした。そういう日が長く続きました。その時代の人が「常夜(トコヤミ)行く」と噂しました。皇后は紀直(キノアタイ)の祖先の豊耳(トヨミミ)に問いました。
「この怪(シルシ)はどうしてだ?」
そのとき、一人の老父がいまして、言いました。
「聞いたところによると、このような怪(シルシ)を、阿豆那比之罪(アズナイノツミ)と言います」
「どういうことか?」
老父は答えました。
「二つの社(ヤシロ)に祝者(ハフリ=神官)を共に合わせて葬っているからだ」
それで港里(ムラサト)に問うてみると、一人が言いました。
「小竹(シノ)の祝(ハオフリ)と天野の祝(ハフリ)は麗しい友だった。小竹の祝は病気になって死にました。天野の祝は血泣(イサ=激しく泣く)して言いました。
『吾(ワレ)は生きている時に、親友だった。どうして死んで、墓穴を同じにしないことがあるか!』
それで屍(カバネ=遺体)のそばに伏して、自殺しました。それで一緒に葬りました。これかもしれません」
すぐに墓を開いてみると事実でした。それで棺櫬(ヒツギ)を新しく作って、別々の場所に埋めました。すぐに日の光は照り、昼と夜は区別がはっきりするようになりました。
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解説

もう一つの天の岩戸
太陽が消え、昼と夜の区別がつかなくなる物語というと天の岩戸神話があります。スサノオの悪行により、天照大神が天岩戸に隠れて太陽が消えます。この天変地異は、岩戸の前で宴会をして天照大神(アマテラスオオミカミ)をおびき出して解決しました。

ここでは昼と夜の区別がつかなくなるという状態の原因が「二人の死者を同じ場所に埋葬したから」ということです。天岩戸神話の場合は、特別な「神」が引き起こした天変地異ですが、ここでは祝(ハフリ)という神官ではありますが「人間」が天変地異を起こすということです。

おそらく、天岩戸神話よりもこの神話の方が一般的だったのではないか?と思っています。日本では神が人格を明確に持って行動するのは、「新しい」考え方だからです。高天原の神話は神々が生き生きと行動しますが、あれは「新しい」考えです。本来は、このアズナイの罪のように「人間がした行為に問題があってそれが世界に影響を及ぼす」という考えが普通だったのでしょう。
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