微叱許智は病気になって死にそうです

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神功皇后(二十六)微叱許智は病気になって死にそうです

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原文

共到對馬宿于鉏海水門、時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彦曰「微叱許智、忽病之將死。」襲津彦、使人令看病者、既知欺而捉新羅使者三人、納檻中以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

現代語訳

(葛城襲津彦と)共に対馬に到着して、鉏海(サヒノウミ=対馬の北の海域?)の水門(ミナト)に宿泊しました。その時、新羅の使者の毛麻利叱智(モマリシチ)たちは密かに船と水手(カコ=漕ぎ手)を手配して、微叱旱岐(ミシカンキ)を乗せて、新羅に逃れました。蒭靈(クサヒトカタ=草で作った人形)を作り、微叱許智(ミシコチ)の寝床に置いて、病気であるかのように偽って、襲津彦(ソツヒコ)に告げて言いました。
「微叱許智(ミシコチ=微叱旱岐)はたちまち病気になって死にそうです」
襲津彦(ソツヒコ)は人を使って病気するものを看病させました。しかし欺かれたことを知り、新羅の使者の三人を捕えて、檻中(ウナヤ=檻)に入れて、火で焼き殺しました。そして新羅に到着して、蹈鞴津(タタラノツ=地名、現在の慶尚南道釜山の多大浦)から草羅城(サワラノサシ=現在の慶尚南道梁山)を抜いて帰りました。このとき俘囚(トリコ=捕虜)として連れ帰ったのは、現在の桑原(クワハラ)・佐糜(サビ)・高宮(タカミヤ)・忍海(オシヌミ)の4つの邑の漢人たちの始祖です。
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解説

神功皇后(二十五)臣が長いこと帰ってこないと妻子が没落して奴隷にの「微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)」とこのページの微叱旱岐(ミシカンキ)と微叱許智(ミシコチ)は同じ人物を指しています。
三国史記にもある
朝鮮の正史の三国史記にも同じ記述があります。訥祇麻立干(19代)の418年です。しかし、このページのような詳細は無く、単に「訥祇麻立干の弟の未斯欣(ミシキン)が倭国から逃げ帰った」とあるだけです。
事実の修飾か?
微叱旱岐(ミシカンキ)が新羅に逃げたのは史実ですが、こんな「人形」を作って騙したのかは分かりません。ただ三国史記には364年に新羅が倭国の軍隊を追い払おうと新羅軍の数を多く見せるために草人形を作って、不意打ちしたという記述があることから、草人形を使うというのは、朝鮮半島では「ポピュラーな策」だったのかもしれません。もちろん、「人形をつくって撃退」という話自体が神話・作り話で、それが日本書紀に採用されたのかもしれません。
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