倭の女王が難斗米などを魏に派遣

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神功皇后(二十八)倭の女王が難斗米などを魏に派遣

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原文

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。」

卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

現代語訳

即位39年。この年、太歲己未でした。
魏志によると、明帝(メイテイ)の景初三年六月に倭の女王が大夫(タイフ)の難斗米(?)などを派遣して、郡(コオリ)に行き、天子に会おうと朝献(チョウケン=中国の朝廷に詣でること)しました。太守の鄧夏(トカ=人名)は吏(リ=役人)を派遣して、京都(ケイト=ここでは洛陽)に詣でました。

即位40年。
魏志によると、正始(セイシ)の元年に、建忠(ケンチュウ=未詳)校尉(コウイ=文官)梯携(テイイ)たちを派遣して詔書印綬(ユウショインジュ)を奉り、倭国にもたらせました。

即位43年。
魏志によると、正始4年、倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約(?)たち8人を派遣して(物品を)献上しました。
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解説

中国との
明帝は魏の三代目の王の明皇帝(曹叡)。景初三年の1月に死んでいるために6月は四代目王の厲公(曹芳)となっていますので、記述がおかしい。
難斗米
「ナシメ」とされます。「難升米」と書くところを間違えたと思われます。難升米は魏志倭人伝にも出ていることから、実在した人物と考えて良い。難升米が魏に行ったことで、卑弥呼は「親魏倭王」の名と金印紫綬を与えられます。
ちなみに難升米は垂仁天皇の時代に「不死の薬」を求めて常世の国へ行った田道間守ではないか?という説もあります。

時代がぜんぜん違うがな
日本書紀では「神功皇后卑弥呼」という主張があり、そのつじつま合わせに魏志の引用をここに入れ込んだと考えるべきです。なにせ神功皇后は4世紀の人物であることはまちがいなく、卑弥呼は3世紀ですから100年近い違いがある。

それでどうして卑弥呼と神功皇后を「同一視」しようと日本書紀が頑張ったのかというと、一般的には「日本は古くからある国だ!」と偽装し主張するためだ、としていますが、それにしては「偽装が甘い」のですよ。偽装したって言っても、100年程度のことでしょう。朝鮮の三国遺事の檀君神話なんて「5000年歴史がある」と言い張ってるんです。偽装のうちには入りませんよ。

仲哀天皇は九州南部攻略を目指しましたが、その途中で死んでしまいました。九州南部の隼人・熊襲はなかなか強敵だった。そこで攻略の簡単な朝鮮半島に舵を切った。そのとき神功皇后をボスにした。ここが妙です。よく考えれば、仲哀天皇の子は応神天皇だけではありません。神功皇后と戦争をした忍熊王仲哀天皇の子であり、皇位を継ぐ権利はあったのです。まして、朝鮮征伐の時点では応神天皇はまだ生まれていません。それでも神功皇后をボスにしたのは、別の理由があったからです。

それは「女王」であるということです。

魏志倭人伝を見ると、「女王を立てると乱が収まって国が落ち着いた」とありますし、日本書紀でも九州の土蜘蛛のボスはほとんど「女」です。九州の氏族をまとめるには「女王」であることが必須だった。そこで神功皇后を立てた。そしてそれで成功した。

神功皇后と卑弥呼は同一人物では無い、のですが、古代では二人は因縁の深い関係であり、同一人物ではないにしても、同一視はされていたハズです。神功皇后に卑弥呼を重ねたからこそ、統率でき、朝鮮征伐が可能になった。だから日本書紀は二人を「同一人物」であるようにした。いや、というよりは、卑弥呼と神功皇后は地域の伝承の中では同一人物というところまで習合していたのではないでしょうか?

古事記と日本書紀は神話と歴史という相反する要素を持った本です。最初は神話だけで構成されたものが、徐々に歴史書という要素を強めていく、神功皇后の物語はその境目の曖昧なところにあります。記紀編纂の頃には、神功皇后の存在は神格化されて曖昧な部分を多く含むようになったと考えるべきだと思います。
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