比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定

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神功皇后(三十三)比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定

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現代語訳

即位49年春3月。荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)を将軍としました。久氐(クテイ)たちと、共に兵を整えて海を渡って、卓淳国(トクジュンノクニ=新羅の近くにある国)に到着して、新羅を襲おうとしました。その時、ある人が言いました。
「兵衆(ツワモノ=兵士)が少なくては新羅を破れないでしょう。また沙白(サハク)・蓋盧(カフロ)を奉って、軍士(イクサビト)を増すことを請いなさい」
それで、木羅斤資(モクラコンシ)・沙々奴跪(ササナコ)に命じて、精兵(トキイクサ=精鋭の兵)を率いて、沙白(サハク)・蓋盧(カフロ)と共に派遣しました。卓淳(トクジュン)に集まって、新羅を撃ち、破りました。
木羅斤資(モクラコンシ)・沙々奴跪(ササナコ)の二人はその姓が分からない。ただし木羅斤資(モクラコンシ)は百済の将です。

比自㶱(ヒシホ)・南加羅(アリヒシノカラ)・㖨国(トクノクニ)・安羅(アラ)・多羅(タラ)・卓淳(トクジュン)・加羅(カラ)の七つの国を平定しました。
兵を移動して西に回って古爰津(コケイノツ)に到着し、南蛮(アリヒシノカラクニ)の忱彌多禮(トムタレ)を屠り去り、百済に与えました。
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解説

日本と新羅の関係年表・新羅本紀より」を読んでも、倭…つまり日本人が頻繁に新羅へと出向いていたことは間違いない。三国史記に創作が多かったとしても、これほどみっともないことを書いたということは、隠しきれない「事実」だったと考えるべきかと思われます。

日本は新羅の悪行を正すために新羅に百済や幾つかの人物の力を借りて征伐に行きました。荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)は日本人です。
沙白(サハク)・蓋盧(カフロ)では軍は卓淳国にあったことを考えると、朝鮮南部の伽耶とか任那と呼ばれる地域の人たちでしょう。沙白(サハク)・蓋盧(カフロ)を「奉る」と書いてあるので二人はこの地域の王だったのではないかと。
また木羅斤資(モクラコンシ)が百済人、と書いてあるということは沙々奴跪(ササナコ)は日本人か、伽耶・任那人となりますが、自然に考えるならば伽耶・任那人でしょう。ということは百済と伽耶・任那は文化・民俗がかなり違うというのが当時の常識だったということになります。似たようなものならば、分けずに「二人とも百済人」と書いたからです。
こうして平定
新羅を征伐に行った。のに、最後に書いてある文章は「朝鮮半島南部を平定したよ!」とあるということは、妙。本来の目的と違う。

大和朝廷は「米」を基本として組織でした。米は税金であり、共通価値の物差しでもあった。だから米が取れない地域は大和朝廷に入れない。入っても意味がない。だから鹿児島の火山灰で米ができない地域は大和朝廷に入るのが遅れた。それと同じ理由で、朝鮮半島の南部は米が作れるので大和朝廷に入った。そもそも魏志倭人伝によれば倭人が住んでいた地域ですから、大和朝廷どうこう以前から米は作っていたんじゃないかと思います。そして米が作れない新羅は、ハブられた。
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原文

卌九年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等共勒兵而度之、至卓淳国、將襲新羅。時或曰「兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。」卽命木羅斤資・沙々奴跪是二人不知其姓人也、但木羅斤資者百濟將也、領精兵、與沙白・蓋盧共遣之、倶集于卓淳、擊新羅而破之、因以平定比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国。仍移兵西爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。
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