腕の肉の形が鞆に似ている

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応神天皇(一)腕の肉の形が鞆に似ている

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現代語訳

譽田天皇(ホムタノスメラミコト応神天皇)は足仲彥天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト仲哀天皇)の第四子です。母は氣長足姬尊(オキナガタラシヒメノミコト神功皇后)といいます。天皇と皇后が新羅を討った年、歲次庚辰(ホシカノエタツニヤドルトシ=星、庚辰に宿る年)の冬12月に筑紫の蚊田(カダ)に生まれました。幼くして聡明でした。ものごとを遠く、深く見ることができました。姿と立ち振る舞いが良く、聖人の印がありました。

皇太后の摂政3年に皇太子となりました。
そのとき、年齢は3つ。

仲哀天皇によって孕んで、天神地祇が三韓(ミツノカラクニ)を(応神天皇に)授けました。生まれた時には腕に肉がついていました。その形が鞆(ホムタ=弓用の防具)に似ていました。それで皇太后の雄々しい装備をして鞆(ホムタ)を履いた様子に肖(ア)っていました。
肖は阿叡(ヘエ)と読みます。

その名を称えて譽田天皇(ホムタノスメラミコト)といいます。
上古(イニシエ)のの時代の俗人は鞆(トモ)を褒武多(ホムタ)と言いました。

ある伝によると…
応神天皇は太子となり、越国(コシノクニ=現在の北陸)に行き、角鹿(ツヌガ)の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を拝祭(オガ)み、奉りました。その時、大神と太子とが名前を交換しました。それで大神を名付けて、來紗別神(イザサワケノカミ)と言うようになりました。太子は譽田別尊(ホムタワケノミコト)と名付きました。つまり、大神の名前が元は譽田別神(ホムタワケノカミ)、太子の元の名前が來紗別尊(イザサワケノミコト)といいます。しかし、(証拠となるものが)見えず、未だ詳細は分かりません。
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解説

異常出生
東西を問わず、偉人の出生は神話化が進むにつれ、「異常」になっていきます。老子は生まれた時から老人。ヘラクレスは生まれた時から怪力。桃太郎はモモから生まれる。応神天皇も母神功皇后により「石」の力で出産が抑えられたり、生まれて見ると腕に肉がついていて「鞆(防具)」みたいだなぁ、と言われることに。すごい人ってのは生まれ方も違うし、生まれたときから凄いんだよなぁ、ってことです。

しかし、当然これらの異常出生は「応神天皇の時代に日本がやたらと発展した」が故の神格化の結果であって「事実」であろうハズもありません。しかし、根も葉もないところから、尾ひれが付くというのも考えにくい。

その原因の候補となるのが角賀(ツヌガ)の「ケヒ大神」です。ツヌガというと「ツヌガアラシト」という朝鮮半島の王子がいた土地です。そして神功皇后の血筋は但馬に移り住んだ新羅の王子の「天日槍(アメノヒボコ)」です。
⚫︎定説ではツヌガアラシトと天日槍は同一人物か、同一神とすることが多い。

但馬と角賀は同じ日本海側です。どちらの土地も朝鮮半島と近いことから貿易をしていたのでしょう。だから、この地域に朝鮮人が移り住んでいてもおかしくない。しかし、ツノガアラシトも天日槍も「完全な日本名」です。朝鮮人であっても、かなりの時間を経過して日本に帰化した状態だったと思われます。

そんな神功皇后の子の応神天皇と角賀のケヒ大神が名前を交換した、という物語は、大和朝廷に角賀の地域が服属したという意味です。名の交換は「兄弟の杯を交わす」みたいなことです。これは但馬・角賀といった日本海側が「朝鮮征伐」に一枚噛んでいたことを指していると思われます。

但馬・角賀といった日本海側は朝鮮との貿易で利益を上げていたとしても、新羅が邪魔だったのです。日本書紀・古事記には「新羅に物品を奪われた話」が見られます。それらの全てが史実でないにせよ、新羅(と、もしかすると伽耶・加羅・任那も)の地域は治安が悪く、山賊というか、そういう輩が多かった。少なくともそういうイメージを持っていたのでしょう。

朝鮮征伐によって治安を良くした大和朝廷によってこの地域は利益を得た。その反映が角賀の名前の交換と、神功皇后の出生地としての但馬なのではないかと。
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原文

譽田天皇、足仲彥天皇第四子也、母曰氣長足姬尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。皇太后攝政之三年、立爲皇太子。時年三。初天皇、在孕而天神地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆(肖、此云阿叡)、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。一云「初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。攝政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歲。
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