訕哤く海人と百済の辰斯王

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応神天皇(三)訕哤く海人と百済の辰斯王

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現代語訳

即位3年冬10月3日。東の蝦夷が皆、朝貢しました。それで蝦夷を使って厩坂道(ウマヤサカノミチ=橿原市大軽町付近)を作らせました。
11月、あちこちの海人(アマ)が訕哤(サバメ=大騒ぎして罵ること)いて従いませんでした。
訕哤は佐麼賣玖(サバメク)と読みます。

それで阿曇連(アズミノムラジ)の祖先の大濱宿禰(オオハマノスクネ)を派遣して、その訕哤(サバメキ)を平定しました。それで海人(アマ)の宰(ミコトモチ=管理者・統率者)としました。それで俗人(トキノヒト)の諺(コトワザ)に言う、「佐麼阿摩(サバアマ)」というのはこれが所以です。
この年、百済の辰斯王(シンシオウ)が立ちました。貴国(カシコキクニ)の天皇に礼がありませんでした。それで紀角宿禰(キノツノスクネ)・羽田矢代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)・石川宿禰(イシカワノスクネ)・木菟宿禰(ツクノスクネ)を派遣して、その礼がない現状を問い詰めました。すると百済の国は辰斯王(シンシオウ)を殺して謝りました。紀角宿禰(キノツノスクネ)たちは代わりに阿花(あくゐ)を立てて王としました。
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解説

東国との良好な関係
景行天皇の時代から揉めていた蝦夷もここでは良好な関係です。蝦夷にヤマトで道を作らせた、ということはやはり大和朝廷と蝦夷の関係は「流通・貿易」で利益を共有していたのではないか?と思います。
さばめく
ヤマトタケルが蝦夷を連れてきて伊勢へと置いたのですが、騒がしくしたので、土地を転々とするという話が残っています。他にも「騒ぐ」「大声をあげる」といったことが日本の神話には見られます。どうやら「大声をあげる」ということは「魔を払う」という感覚があったよう。
それが海人の「さばめく」ことと関係あるかは分かりませんが、蝦夷をヤマトタケルが統率したことを考えると安曇連が海人を統率したという経緯は、まとめあげて「エイエイオー」とみんなで声を上げた、という意味なのかも、と個人的には思っています。
百済との関係
朝鮮の歴史書の三国史記には16代王の辰斯王の次が17代の阿莘王(日本書紀では阿花)が即位しているので矛盾がありません。
三国史記では高句麗と靺鞨(中国北東の異民族)との戦い破れまくって北部のほとんどを奪われ、ついには死去。死亡した理由は「狩りに出かけて行方不明」。謀殺されたのかもしれないと考えると、これも日本書紀の記述と矛盾しない。
日本書紀三国史記百済本記の違い
日本は礼を失したから、大使を派遣したら、百済国内部で粛清されたということになっています。日本は儒教の影響を受けていて「礼」を大事にしていました。礼を示さない国には「罰」を与えなくちゃいけない。これは現在の中国と韓国と同じロジックです。

この「礼を失した」ことが事実だとすると、百済はこの時期、日本から距離を取っていたことになります。ではどこと親密になっていたか? そりゃ高句麗か、中国(唐)でしょう。高句麗とは戦争していましたから、高句麗と親密に・・・というのは無い、気がしますが、戦争に大敗したから、折れたというのは事大主義の原因である儒教の国としては致し方ないってものです。
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原文

三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。(訕哤、此云佐麼賣玖。)則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。
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