千葉の葛野を見れば……

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応神天皇(四)千葉の葛野を見れば……

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現代語訳

即位5年秋8月13日。
諸国に令(ノリゴト=命令)を出して、海人(アマ)と山守部(ヤマモリベ)を定めました。冬10月に伊豆国(イズノクニ)に科(フレオオス=命じて)船を造らせました。長さ十丈(とつゑ)です。船が完成しました。試しに海に浮かべました。軽くて浮かび、速く進む様子は走るようでした。
それでその船を名付けて枯野(カラノ)といいます。船が軽く速いから、枯野と名付けるのは間違っている。もしかすると軽野と言っていたのが後の人が訛ったのではないか?


即位6年の春2月。天皇は近江国(オウミノクニ)に行き、菟道野(ウジノ=山城国宇治郡宇治郷=現在の京都府宇治市)の上に到着して歌を歌いました。

千葉の葛野(カヅノ)を見れば 百千足る(モモチタル)
家庭(ヤニワ)も見ゆ 国の秀(ホ)も見ゆ
歌の訳葛野(カヅノ)を見渡すと、たくさんの家庭が見えるなぁ。国のすぐれたところも見えるなぁ。(千葉は葛野の枕詞)

即位7年秋9月。高麗人(コマビト)・百濟人(クダラビト)・任那人(ミマナビト)・新羅人(シラキヒト)が大和朝廷にやって来ました。その時、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて、それぞれの韓人(カラヒト)たちを率いて池を造らせました。それでその池を名付けて韓人池(カラヒトノイケ)といいます。

即位8年春3月に百濟人が大和朝廷にやって来ました。
百済記によると……阿花王(あくゐおう)が立って貴国(カシコキクニ)に礼が無かった。それで我ら(=ここでは百済のこと)の土地である枕彌多禮(トムタレ)と峴南(ケンナム)・支侵(シシム)・谷那(コクナ)・東韓(トウカン)を奪われました。それで王子の直支(トキ)を天朝(ミカド=天皇)に派遣して、王の(服従の)好意を表しました。
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解説

軽野と枯野
日本書紀の文章ではよく意味がわからないのですが、「試しに海に浮かべる」ということは、乗客も荷物も乗っていないわkです。ということは「空(カラ)」です。空っぽだから「枯野(カラノ)」と言っていたわけです。もちろん、空っぽということは「軽い」わけで、ということは「速い」のですね。でも、由来は違うよ! 「空っぽ」だから「枯野」であって。「軽い」から「枯野」じゃないよっ! ってことです。
千葉の葛野を……
応神天皇は仁徳天皇の父です。仁徳天皇といえば、かまどの煙が少ないのを見て、税金を免除して国が富むのを待ったという徳のある天皇です。応神天皇の時代は、仁徳天皇の時代よりも豊かだったのでしょうか? なんとも言えませんが、この時代であっても、国の礎は「家」というのが常識だったよう。
韓人池
この池は現在の奈良県橿原市の「唐古池」ではないか?とされています。
百済記について
応神天皇(三)訕哤く海人と百済の辰斯王」で、新しい王となった百済の阿花。17代の阿莘王のことです。阿花は前の辰斯王と同様に礼を欠いて、日本に怒られてしまいます。これは朝鮮の歴史書の「三国史記」に対応する記述が見られます。

高句麗と百済は戦争状態で、百済は基本的に負け戦でした。そして高句麗に服属を迫られます。その服属を迫られるたびに「日本に挨拶を行かない」ことになるようです。高句麗に服属するなら日本に挨拶に行くということは、高句麗に対する「反逆」になりますからね。当然、百済内には「高句麗派」と「日本派」があったハズです。しかし、日本も怖い。このフラフラした状態が百済の国の状態を表しているのでしょう。
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原文

五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。冬十月、科伊豆國、令造船、長十丈。船既成之、試浮于海、便輕泛疾行如馳、故名其船曰枯野。由船輕疾名枯野、是義違焉。若謂輕野、後人訛歟。

六年春二月、天皇幸近江國、至菟道野上而歌之曰、

知麼能 伽豆怒塢彌例麼 茂々智儾蘆 夜珥波母彌喩 區珥能朋母彌喩

七年秋九月、高麗人・百濟人・任那人・新羅人、並來朝。時命武內宿禰、領諸韓人等作池、因以、名池號韓人池。

八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
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