這う虫・殻・飛ぶ鳥の三色に変わる三種の虫

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這う虫・殻・飛ぶ鳥の三色に変わる三種の虫

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読み下し文

ここに口子の臣、また其の妹口比賣、及び奴理能美、三人議りて天皇に奏さしめて云いしく、「大后の幸行せる所以は、奴理能美の養える虫、一度は匐う虫と爲り、一度は殼と爲り、一度は飛ぶ鳥と爲りて三色に變わる奇しき虫有り。 此の虫を看に行かんとて入坐すのみ。 更に異し心無し。」 かく奏しし時に、天皇詔らさく、「然らば吾も奇異しと思うが故に、見に行かんと欲う。」
大宮より上り幸行して、奴理能美の家に入り坐しし時に、其の奴理能美、己が養える三種の虫を大后に獻りき。 爾くして、天皇、其の大后の坐せる殿戸に御立ちして歌いて曰く、

都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

此の天皇と大后の歌える六つの歌は志都歌の歌返なり。
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現代語訳

口子臣(クチコノオミ)とその妹の口比売(クチヒメ)と奴理能美(ヌリノミ)の三人が話し合って、天皇に申し上げました。
「大后が(筒木の宮に)行っている理由は奴理能美(ヌリノミ)が飼っている虫なのです。その虫は一度は這う虫となり、次は殻(カイコ)となり、次は飛ぶ鳥になる、三色に変わる奇怪な虫なのです。この虫を見に行ったのです。変な心(=嫉妬から来る天皇の反逆)など無いのです」
そう言うと、天皇は言いました。
「それならば、私も奇怪と思うので、見に行こうと思う」
それで大宮(=天皇の宮)から上って行き、奴理能美(ヌリノミ)の家に入ってみると、奴理能美が飼う三種(ミクサ=三種類の状態になる虫=カイコ)の虫を大后に献上しました。それで天皇は大后のいる殿戸(宮殿の戸)に立って歌いました。

つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す やがはえなす 来入り参来れ
歌の訳(「つぎねふ」は山代の枕詞)山代の女が木の鍬を持って引っこ抜いた大根がサワサワ(=「清か【サヤカ】」と「騒がしい」を掛けた言葉)としている。あなたが騒がしく言うから、遠くに見える八桑枝(=大きな桑の木の枝)のように騒がしく、共を連れて来てしまった

この天皇と大后の歌った6つの歌は志都歌(シヅウタ)の歌返(ウタガエシ)です。
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解説

絹の伝来
九州の福岡・佐賀・長崎県の遺跡では「絹」が出土されていて、これらの遺跡が弥生時代のものなので、仁徳天皇の時代(5世紀)にはとっくの昔に絹は日本に伝わっていたのは間違いない。よって、この「韓人がカイコを大后に献上した」という話は、史実とは違う。
奈良や島根や京都に絹が出土されるのは古墳時代とされる4世紀。そういう意味でもこの仁徳天皇の時代に絹が伝わったというのは矛盾する。

もちろん「絹が伝わった」のが弥生時代であっても、「絹の製法が伝わった」のは仁徳天皇の時代と主張する人がいるかもしれないが、卑弥呼が絹織物を献上していることや、絹の出土品の「織り方」が中国のそれとは違うことから、独自の手法を作り出していたことがハッキリしているので、弥生時代には「絹を精製」していたのは間違いない。つまりこの物語は完全に史実とは違う。

ではこの和爾氏の伝承だと思われる「蚕の献上」の物語は何か?というと、単純に「和爾氏」に「蚕」がやって来た話をまとめたものだったと思います。ある日、蚕がやってきて、養蚕が始まった。そういう伝承が残っていた。それを古事記に採用した。採用にあたって、本来は和爾氏の先祖が登場人物だったものを天皇と大后やその関係者に置き換えた。そういうことではないか?と。
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