根臣は押木玉鬘を盗み、讒言を報告する

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根臣は押木玉鬘を盗み、讒言を報告する

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読み下し文

御子、穴穗の御子、石上の穴穗の宮に坐しまして天の下治しめしき。
天皇、伊呂弟大長谷の王子の爲に、坂本の臣等の祖、根の臣を大日下の王の許に遣わして詔らさしめくは、「汝が命の妹、若日下の王を大長谷の王子に婚わせんと欲う。故、貢るべし」。爾くして大日下の王、四たび拜みて白さく、「若しかくの大命有らんかと疑えり。故、外に出ださずして置けけるなり。是れ恐し。大命の隨に奉進らん」。然れども言以ちて白す事、其の禮无しと思いて、即ち其の妹の禮物と爲て押木の玉縵を持たしめ貢獻りき。根の臣、即ち其の禮物の玉縵を盜み取りて大日下の王を讒して曰く、「大日下の王は勅命を受けずして曰く、『己が妹をや、等しき族の下席と爲すや』といいて、横刀の手上を取りて怒りつるか」。故、天皇、大きに怒りて大日下の王を殺して、其の王の嫡妻長田の大郎女を取り持ち來て皇后と爲き。
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現代語訳

前の天皇の允恭天皇の御子である穴穂御子(アナホノミコ)は石上穴穂宮(イソノカミノアナホノミヤ=奈良県天理市田町)に居て、天下を治めました。
天皇は伊呂弟(イロド=同腹弟)は大長谷王子(オオハツセノミコ)の為に坂本臣(サカモトノオミ)などの先祖の根臣(ネノオミ)を大日下王(オオクサカノミコ)の元に派遣して、詔(ミコトノリ)しました。
「お前の妹の若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷王子(オオハツセノミコ)と結婚させようと思う。よって献上しなさい」
大日下王(オオクサカノミコ)は四回拝んで言いました。
「もしかして、このような重要な命令があるのではないか?と想定していました。だから(妹の若日下王を)外に出さずに置いていました。畏れ多いことです。命令のままに奉りましょう」
しかしこの言葉だけでは無礼に思ったので、その妹の礼物(アヤモノ=敬意を表して奉る品物)として押木玉鬘(オシキノタマカズラ=未詳だが金属製の冠か?)を(根臣に)持たせて献上しました。根の臣はその礼物の玉鬘を盗み取って大日下王を貶めるように報告して言いました。
「大日下王は勅命(オオミコト)を受けないで言ったのです。
『わたしの妹を、同列の氏族の下働きにできるか』
と横刀(タチ)の手上(タガミ=柄)を掴んで怒っていました」
天皇はとても怒って大日下王を殺して、その王の妻の長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を取り上げて皇后としました。
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解説

大日下王
大日下王は仁徳天皇の子です。

仁徳天皇の皇后は石之日売(イワノヒメ)です。妃が髪長比売(カミナガヒメ)で、その髪長比売が大日下王の母親です。ちなみに石之日売の子供の蝮水歯別命(タジヒノミズハワケノミコト)が反正天皇、男淺津間若子宿禰命(オアサヅマワクゴノスクネノミコト)が允恭天皇となっているのですね。ここまで兄弟で天皇になっているんです。だから大日下王は允恭天皇の後に天皇になってもいいんです。それが允恭天皇の子の安康天皇に皇位が継がれたということは、大日下王は飛ばされたってことです。

これには葛城氏が関わっているんでしょう。

石之日売は葛城氏です。よってその子の反正天皇・允恭天皇そして允恭天皇の子は安康天皇は「葛城氏」系です。そして大日下王は「非葛城氏」です。

この大日下王の殺害はそういった政治背景があって起きた事件じゃないかと思うのです。
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