大長谷若建命の政治と后と子息子女について

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大長谷若建命の政治と后と子息子女について

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書き下し文

大長谷の若建の命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
天皇、大日下の王の妹、若日下部の王を娶りき【子无し】。また都夫良意富美の女、韓比賣を娶りて生みし御子は白髮の命。次に妹若帶比賣の命【二柱】。故、白髮の太子の御名代と爲して白髮部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定めき。此の時に、呉人參い渡り來たり。其の呉人を呉原に安置きき。故、其の地を號けて呉原と謂う。

現代語訳

大長谷若建命(オオハツセノワカタケルノミコト)は長谷(ハツセ)は長谷朝倉宮(ハツセノアサクラノミヤ=長谷は大和国城上郡長谷で現在の奈良県桜井市初瀬だが朝倉宮は不明)に居て、天下を治めました。
天皇は大日下王(オオクサカノミコ)の妹の若日下部王(ワカクサカベノキミ)を娶りました。ただし御子はいませんでした。また都夫良意富美(ツブラオオミ)の娘の韓比売(カラヒメ)を娶って産んだ子が白髪命(シラカノミコト=清寧天皇)です。次に生まれたのは若帯比売命(ワカタラシヒメノミコト)です。
白髪太子の御名代(ミナシロ)として白髪部(シラカベ)を定め、長谷部(ハセベ)の舎人(トネリ)を定め、河瀬(カワセ)の舎人(トネリ=河を管理する人)を定めました。このとき呉人(クレヒト=中国江南地方の呉の人)が参り渡って来ました。その呉人(クレヒト)を呉原(クレハラ=現在の奈良県高市郡明日香村栗原)に住まわせました。その土地を名付けて呉原(クレハラ)といいます。
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解説

雄略天皇の子供として白髪命(=清寧天皇)が生まれました。生まれた時から白髪だったために「特別」な存在であり、雄略天皇はその霊威から皇太子にした、という経緯があります。この清寧天皇は皇后・妃を設けることなく、子息子女も居らず、跡継ぎが無くなってしまいます。

清寧天皇に子息子女が居なく、跡継ぎがいないというのは、雄略天皇の横暴(政敵の殺害)が遠因ではないか?と思います。当時の日本は儒教の考えがありました。儒教の思想では先祖と子孫は「同一体」です。つまり子々孫々が続く限り、先祖の魂は永遠不滅なのです。しかし、子孫がいない、ということは存在そのものが死滅するという意味になります。雄略天皇は多くの殺人があり、その罪から清寧天皇に子息子女が無かったのではないか?と。

実はすでに似たようなケースがありました。反正天皇です。反正天皇こと水歯別命は隼人の曾婆訶理(ソバカリ)をその手で殺害しています。「その手で」というのが大事です。過去の天皇だって、人は殺しています。ただしそれは、戦争の中で部下の手によってか、「弓」で、です。剣を持ち、その手で殺しているケースは少ないんです。

反正天皇は人を殺しました。反正天皇も皇后が居らず皇太子が居ません。次の允恭天皇は反正天皇の弟です。

「人を殺す」ということは「死穢(シエ=死の穢れ)」にまみれる罪深いことです。特に天皇(スメラミコト)は清らかであることを求められる存在ですから、「死穢」からは遠い存在でないといけない。それが人をバンバンと殺したとあってはマズイ。現代の個人主義では父の罪は子に引き継がれることはありませんが、儒教の「先祖と子孫は同一体」という考えでは、これはあり得ません。雄略天皇の「死穢」は子孫にまで引き継がれます。少なくとも当時の人たちはそう考えたはずです。雄略天皇の血を引き継いではいけない、そういう周囲の考えが清寧天皇や反正天皇の「皇太子は無し」という状況を作ったのではないか?と思います。
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