武烈天皇の治世と後継

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武烈天皇の治世と後継

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書き下し文

小長谷の若雀の命、長谷の列木の宮に坐しまして、天の下治しめすこと捌歳なり。
此の天皇に太子无し。故、御子代と爲て小長谷部を定めき。御陵は片岡の石坏の岡に在り。

天皇既に崩りますに日續を知らす可き王無し。故、品太の天皇の五世の孫、衰本杼の命を近つ淡海の国より上り坐さしめて、手白髮の命に合わせて天の下を授け奉りき。
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現代語訳

子長谷若雀命(オハツセノワカサザキノミコト=武烈天皇)は長谷の列木宮(ナミキノミヤ)に居て8年の間、天下を治めました。
この天皇に太子(ヒツギノミコ=皇太子)はいませんでした。御子代(ミコシロ)として小長谷部(オハツセベ)を定めました。御陵(ミササギ=墓)は片岡の石坏(イワツキ)の岡にあります。

天皇は崩御しても、日続(ヒツギ=後継者)を知らすべき王がいませんでした。それで品太天皇(ホムダノスメラミコト)の5世の孫であり衰本杼命(オオドノミコト)の近つ淡海国(チカツオウミノクニ)から上って来てもらい、手白髪命(タシラカノミコト)と結婚して天下を授けました。
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解説

武烈天皇の陵
顕宗天皇が葬られた土地も「片岡の石坏(イワツキ)の岡」です。武烈天皇は仁賢天皇の子で、武烈天皇から見ると顕宗天皇は叔父にあたります。同じ場所に埋めたのは何か理由があったのでしょうか。

継体天皇へ
武烈天皇の時代についに皇太子だけで無く、親戚にも後継者が途切れました。いや、本当はいたのかもしれませんけどね。もしかしたら、もう揉め事を避けて「リセット」するために継体天皇にバトンタッチしたのかもしれません。

継体天皇はよく「作られた天皇」みたいに言われます。無理やり血縁があるみたいに設定して地方から連れてきた天皇みたいな。まー、古事記とか日本書紀ってのは曖昧な記述が多く、神話めいたところもあり、疑えばどこまでも疑えるので、そこいらへんは深く考えないほうが楽しめるかと思いますね。
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