筑紫君石井の無礼

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筑紫君石井の無礼

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書き下し文

此の中に天国押波流岐廣庭の命は天の下治しめしき。次に廣国押建金日の命、天の下治しめしき。次に建小廣国押楯の命、天の下治しめしき。次に佐佐宜の王は伊勢の神の宮を拜みき。

此の御世に竺紫の君、石井、天皇の命に從わずて、多に禮无し。故、物部の荒甲の大連・大伴の金村の連の二人を遣して、石井を殺しき。
天皇の御年は肆拾參歳【丁未の年の四月九日に崩りき】。御陵は三嶋の藍陵なり。

現代語訳

この中の天国押波流岐廣庭命(アメクニオシハルキヒロニワノミコト=欽明天皇)は天下を治めました。次に廣国押建金日命(ヒロクニオシタケカナイノミコト=安閑天皇)が天下を治めました。次に建小廣国押楯命(タケオヒロクニオシタテノミコト)が天下を治めました。次に佐佐宜王(ササゲノミコ)は伊勢神宮に仕えました。

この継体天皇の時代に筑紫君石井(ツクシノキミイワイ)が天皇の命令に従わず非常に無礼だった。それで物部荒甲大連(モノノベノアラカイノオオムラジ)と大伴金村連(オオトモノカナムラノムラジ)の二人を派遣して、石井(イワイ)を殺しました。

継体天皇は43歳で亡くなりました。丁未の年の四月九日に崩御しました。御陵は三嶋(ミシマ)の藍陵(アイノミササギ)にあります。
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解説

サラっと大事件が
九州の筑紫君石井が無礼で、殺したとあります。特に継体天皇は皇后・妃・子息子女の記事以外はこの「筑紫君石井」の話しかありませんから、余計に目立ちます。

日本書紀では「磐井(イワイ)」が新羅と共謀して反乱してそれを鎮圧したとあります。これは継体天皇という、傍流の家系の天皇であったがために、基盤が緩く、その結果の「乱」なのか? 倭は朝鮮の歴史書の「三国史記」によると朝鮮に出兵していますから、その負担が九州にあって、不満が溜まって・・・という説もあります。
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