推古天皇の治世

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推古天皇の治世

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書き下し文

妹、豐御食炊屋比賣の命、小治田の宮に坐しまして天の下治しめすこと參拾漆歳【戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りき】。 御陵は大野の岡の上に在りしに、後に科長の大陵に遷しき。
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現代語訳

崇峻天皇の妹の豊御食炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)の小治田宮(オハリダノミヤ=奈良県高市郡明日香村)に居て、37年、天下を治めました。戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩御しました。御陵(ミササギ=墓)は大野の岡の上にありましたが、のちに科長(シナガ)の大陵(オオミササギ=大阪府南河内郡太子町山田)に移しました。
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解説

推古天皇は「神話性」があるとされる神功皇后と、「天皇の名すら無い天皇」の飯豊皇女を除けば最初の女性天皇。推古天皇の時代に「天皇」という名称が無かった、だから、最初の女性天皇ではない、という言い方をする人もいますが、天皇ではなくとも(お飾りだったとしても)大和朝廷のボスだったことは間違い無い。だから「東アジア最初の女帝」という言い方をされることもあります。

蘇我稲目の娘の岐多斯比売(キタシヒメ)が母なので「蘇我系」です。まぁ、用明天皇は推古天皇と同母、崇峻天皇の母親は岐多斯比売(キタシヒメ)の「オバ」と書いてあるので、ここのところは全員「蘇我系」なんですよね。
科長の大陵
御陵とか陵といういい方はありましたが「大陵」というのは初めて。それだけ推古天皇が偉大だったのでしょう。推古天皇の時代は聖徳太子が摂政となり、様々な政策が取られ、近代化が進みました。仏教の採用、遣隋使もこの時代です。
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