高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射る

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仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射る

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原文

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗国貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以拜朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豊之。

現代語訳

即位12年7月3日。
高麗国(コマノクニ)の鉄(クロガネ)の盾(タテ)・鉄(クロガネ)の的(マト)を献上しました。

8月10日。
高麗(コマ)の客が朝(ミカド=朝廷)で食事会をした。この日、群臣(マヘツノキミタチ=臣下達)と百寮(ツカサツカサ=官僚・役人)を集めて、高麗の献上した鉄(クロガネ)の盾と的を射ました。もろもろの人は的を射て(矢を)通すことができませんでした。ただ、的臣(イクハノオミ)の祖先の盾人宿禰(タテヒトノスクネ)だけが鉄の的を射て通しました。そのとき、高麗の客人達が、それを見て、その弓を使う技術が優れているのを恐れて、皆が立って拝朝(ミカドオガミ)しました。翌日、盾人宿禰(タテヒトノスクネ)を褒めて、名前を与えました。それで的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)といいます。同じ日に小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)の祖先の宿禰臣(スクネノオミ)に名を与えて、賢遺臣(サカノコリノオミ)というようになりました。
賢遺は左舸能莒里(サカノコリ)と読みます。

冬10月。大溝(オオウナデ=大きな溝・堀)を山背(ヤマシロ)の栗隈県(クリクマノアガタ)に掘って、田を潤しました。それでその百姓(オオミタカラ)は毎年豊作となりました。
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解説

的臣
「的臣は武内宿禰の子供の葛城襲津彦の子孫」と姓氏録、山城皇別・河内皇別・和泉皇別などの書物に書かれています。葛城襲津彦の娘が磐之媛命(イワノヒメノミコト=仁徳天皇の皇后)で、的臣は葛城襲津彦の「子」と考えられます。
的戸田宿禰
このページで「的戸田宿禰」と命名されたよーと書いてあるのですが「応神天皇(十二)襲津彦と弓月の民の帰国」に的戸田宿禰に名前があります。ただ、日本書紀の文章は後世に書いているので、命名が前後したから矛盾するということも無いかと。

ただ、高麗から「盾」と「的」がやって来て、盾人宿禰が「的を射た」から、的戸田宿禰になったというのはなんか変。この物語は何かの神話を書き換えたものではないかなぁ、とも思います。
小泊瀬造
小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセノワカサザキノミコト)が武烈天皇ですから、何か関係があるのかもしれません。
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