大兄去来穗別尊の立太子と磐之媛の死

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仁徳天皇(二十五)大兄去来穗別尊の立太子と磐之媛の死

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原文

卅一年春正月癸丑朔丁卯、立大兄去來穗別尊、爲皇太子。

卅五年夏六月、皇后磐之媛命、薨於筒城宮。

卅七年冬十一月甲戌朔乙酉、葬皇后於乃羅山。

卅八年春正月癸酉朔戊寅、立八田皇女爲皇后。

現代語訳

即位31年春1月15日。大兄去来穗別尊(オオエノイザホワケノ=履中天皇)を皇太子としました。

即位35年夏6月。皇后の磐之媛命(イワノヒメノミコト)が筒城宮で亡くなりました。

即位37年冬11月12日。皇后を乃羅山(ナラヤマ=奈良県奈良市奈良坂付近)に葬りました。

即位38年春1月6日。八田皇女(ヤタノヒメミコ)を皇后としました。
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解説

磐之媛の死
古事記では磐之媛(=石之日売命)が死んだことは描かれておらず、女鳥王と速総別王との三角関係のもつれからの戦争の際に女鳥王の遺物(アクセサリー)を盗んだ山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)を罰したのは「石之日売命」とされているので、存命(という設定)です。

皇后が死んだ途端に八田皇女を
異母妹であり、長年、妃にしたがっていた八田皇女をついに皇后に。前皇后である磐之媛が死んだ途端です。また磐之媛が「筒城宮」で死んだということは、難波高津宮には帰っていないということであり、別居状態したまま、夫婦仲は修復されなかった、ということでしょう。

磐之媛は葛城氏の娘。八田皇女は菟道稚郎子の妹で、和珥臣の祖先の日触使主(ヒフレノオミ)の娘の宮主宅媛(ミヤヌシノヤカヒメ)が母親、つまり和珥氏系です。和珥氏は他にも雄略天皇・仁賢天皇・継体天皇にも妃を出しています。八田皇女は和珥氏が発展する「先鋒」と言ってもいいかもしれません。特に雄略天皇は政権を取るときに、葛城氏をことごとく殺しています。

磐之媛vs八田皇女というのは、そういう葛城vs和珥の背景があってこその物語なんでしょう。
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