酒君の無礼と石川錦織首許呂斯

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仁徳天皇(三十)酒君の無礼と石川錦織首許呂斯

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現代語訳

即位41年春3月。
紀角宿禰(キノツノスクネ)を百済(クダラ)に派遣して、初めて国郡(クニコオリ)の境を分けて、郷土所出(クニツモノ=地方の特産物)を記録しました。このときに百済の王の族(ヤカラ=親族)の酒君(サケノキミ)が礼を失した。それで紀角宿禰(キノツノスクネ)は百済の王を責めると、百済の王は畏まって、鉄の鎖で酒君(サケノキミ)を縛って、襲津彦(ソツビコ)に差し出し、献上しました。それで酒君は日本に来て、石川錦織首許呂斯(イシカワノニシコリノオビトコロシ)の家に逃げ隠れました。そして嘘をついて言いました。
天皇はすでにわたしめの罪を赦しました。だからあなたのところで生きていきたい」
その後、時間が経って、ついに天皇はその罪を赦しました。
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解説

国郡を分ける
国郡を分けるってのは、土地を細かく分割して、そこに官僚というか知事というか、そういう首長を中央から派遣する「政治体制」を整えることを指しています。地方の特産物を記録するのも「税」のためには必要です。つまり、この時点まで百済は、小さな村が並立するだけの国家とは言えない状態だったということになります。
この記述を「創作」とする意見もありますが、現代の日本は戦後から現在まで長い間「朝鮮は先進的」という考えがあったから、そういう意見になったと考えたほうがいいと思うのです。というのも、魏志倭人伝を見ても、朝鮮より日本のほうが明らかに人口が多く評価が高いのです。古代において日本より朝鮮が先進的だったとは思えません(文化の通り道ではあったとしても)。

古事記や日本書記が朝鮮を批判的に書いたとしてもそれは、のちの政治的な都合があったからという見解も成立しますが、中国の歴史書が朝鮮より日本を評価しているのは「客観的」と判断しなくてはいけません。

だからこの「百済の国郡の境を日本が決めた」というのはあながち嘘とは言えないと思いますね。
襲津彦
葛城襲津彦(カツラギノソツビコ)は仁徳天皇の最初の皇后「磐之媛(イワノヒメ)」の父親です。
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原文

卌一年春三月、遣紀角宿禰於百濟、始分国郡壃場、具錄鄕土所出。是時、百濟王之族酒君无禮、由是、紀角宿禰訶責百濟王。時百濟王悚之、以鐵鎖縛酒君、附襲津彦而進上。爰酒君來之、則迅匿于石川錦織首許呂斯之家、則欺之曰「天皇既赦臣罪、故寄汝而活焉。」久之、天皇遂赦其罪。
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