車持部の罪

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履中天皇(十一)車持部の罪

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原文

冬十月甲寅朔甲子、葬皇妃。既而天皇、悔之不治神崇而亡皇妃、更求其咎、或者曰「車持君、行於筑紫国而悉校車持部、兼取死神者。必是罪矣。」天皇則喚車持君、以推問之、事既得實焉。因以、數之曰「爾雖車持君、縱檢校天子之百姓、罪一也。既分寄于神車持部、兼奪取之、罪二也。」則負惡解除・善解除而出於長渚崎令秡禊。既而詔之曰「自今以後、不得掌筑紫之車持部。」乃悉收以更分之、奉於三神。

現代語訳

(即位5年)冬10月11日。皇妃を葬りました。天皇は神の祟りを治めず、皇妃が亡くなったのを後悔して、その祟りの咎(トガ=原因)を探り求めました。ある人は言いました。
「車持君(クルマモチノキミ)は筑紫国へ行って、すべての車持部(クルマモチベ)を校(カトル=人民を調査して税金を取ること)して、充神者(カムベラノタミ)を取り上げました。この罪でしょう」
天皇はすぐに車持部(クルマモチベ)を呼び寄せて、問い詰めました。するとこれは事実でした。それで責めて言いました。
「お前は、車持部(クルマモチベ)といって、ほしいままに天子(ミカド)の百姓を検校(カトル)した。これが罪の一つ。神に配置した車持部をあわせて奪い取った。これが二つ目の罪だ」
それで悪解除(アシハラエ)・善解除(オシハラエ)を負わせて、長渚崎(ナガスノサキ=摂津国河辺郡の海岸=現在の兵庫県尼崎市長洲)に出で、祓い、禊(ミソギ)をさせました。そして詔(ミコトノリ)して言いました。
「今より以降、筑紫の車持部を司ることは出来ない(=担当から外すよってこと)」
すべて(=人民と車持部)を返して、更に分配して三柱の神に奉りました。
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解説

筑紫の三柱の神の怒りから始まった祟りは、車持君を祓い禊をして、検校した人民と車持部を返却して解決。皇妃は死んだけどね。

天岩戸と同じ日本人の感覚
スサノオ高天原で悪行を働いて、その結果、アマテラス天岩戸に隠れて太陽が消える。つまり個人の罪が社会全体の混乱を招くというのが、「日本人の思想」なわけです。

この車持君が筑紫で悪行を働いたことで、皇妃が死んでしまうという結果を呼んだ。そこで車持君から罪を祓い、禊をした。禊ってのは、「身を削ぐ」ということで、全身の毛を剃って綺麗にして水を洗って清めるということです。その「毛を剃る」という行為の根本がスサノオ高天原を追い出されたときに「爪・ヒゲ・唾液」を没収した、ということと繋がると想います。

筑紫の三柱の神によって皇妃は死に、筑紫の人民から税金を取ろうとしたけど頓挫しました。つまり、筑紫はまだ大和朝廷の完全な勢力下にあるわけではないということじゃないかと思うのです。
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