大中姫命は大王に手洗水を

MENU
TOP>允恭天皇(日本書紀)>允恭天皇(二)大中姫命は大王に手洗水を

允恭天皇(二)大中姫命は大王に手洗水を

投稿日時:0000-00-00 00:00:00
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

即位元年の冬12月。
妃の忍坂大中姫命(オシサカオオナカツヒメノミコト)は群臣が憂いて彷徨っている様子を苦しく重い、自ら洗手水(オオテミズ=手を洗う水)を持って参上して、皇子の前に進みました。それで言いました。
「大王(キミ)、皆の思いを無視して皇位に就かないのですね。皇位が空いたままですでに、年月が経っています。群臣(マヘツノキミタチ)や百寮(ツカサツカサ=役人官僚)はどうしたらいいか分からないという状態ですよ。お願いですから、皆の希望に従って、無理にでも帝位についてください」
しかし皇子は聞き入れようともせず、背中を向けて何も言いませんでした。それで大中姫命(オオナカツヒメノミコト)は、そのまま畏まって動かなくなりました。皇子は姫が退いていないことを知らないままで居ました。それから4、5剋(=1時間ほど)経ちました。この時は季冬(シワス=12月)でしたから風は激しく寒かったのです。大中姫の捧げた手洗水の入った鉄製のお椀の水があふれて、姫の腕で氷となってしまいました。寒さに耐え切れず、ついに死んでしまいそうになりました。皇子は、やっと振り返って見て驚きました。すぐに助け起こして言いました。
「嗣位(ヒツギノクライ=天皇位)は重大なことだ。たやすく就くことはできない。だから今まで従わなかった。しかし、今、群臣の請願やその事理(コトワリ)は明らかに正しい。どうしていつまでも断れるだろうか」
それで大中姫は喜んですぐに群卿(マヘツノキミタチ=臣下たち)に語って言いました。
「皇子は群臣の願ったことを聞き入れるそうです。今、天皇の璽符(ミシルシ)を献上いたしましょう!」
群臣は大いに喜んで、その日のうちに天皇の璽符を捧げて、拝んで献上しました。皇子は言いました。
「群卿が皆、天下のために自分を求め願った。どうして断れるだろうか」
帝位に就きました。この年、太歲壬子。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

なぜ允恭天皇か
允恭天皇は仁徳天皇の子で、履中天皇・反正天皇の弟・・・腹違いじゃなく同母弟です。その允恭天皇はこの後、42年の治世を行います。

長い。

履中天皇が6年で反正天皇が5年ですから、允恭天皇が異常な長生きなのか、前者の二人が異常に短命じゃないと辻褄が合いません。まぁ、そこいらへんはここでは放置しておきましょう。

允恭天皇は病気で体が悪かった。だから天皇になるのを断った。身を破って病気を治そうとした。身を破ったというのはわたしは手術ではないかと思いますが、まぁ、そこは割愛。ともかく断る理由はあるのですね。天皇の仕事は楽ではないでしょうから、これもしょうがない。しかし、それでも允恭天皇は天皇となった。それは儒教的な「臣下に拝み倒されて」というエピソードがあったから、となっていますが、そんなことしなくても、允恭天皇の他に大草香皇子(オオクサカノミコ)も「允恭天皇(一)雄朝津間稚子宿禰皇子は天皇位を拒否する」で提案されているのです。大草香皇子でいいじゃないですか。
允恭天皇(一)雄朝津間稚子宿禰皇子は天皇位を拒否する
群卿(マヘツノキミタチ=臣下たち)は話し合いって言いました。
「今、大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト=仁徳天皇)の子は雄朝津間稚子宿禰皇子(オアサヅマワクゴノスクネノミコト)と大草香皇子(オオクサカノミコ)の二人です」

また履中天皇にも皇子がいたのです。
履中天皇(六)罰としての黥。即位と皇妃とその子息子女
秋7月4日。葦田宿禰(アシタノスクネ)の娘の黒媛(クロヒメ)を立てて、皇妃(ミメ)としました。妃は磐坂市辺押羽皇子(イワサカイチノヘノオシハノミコ)御馬皇子(ミマノミコ)、青海皇女(アオミノヒメミコ) を生みました。

葛城氏の意思
允恭天皇が即位した背景には「葛城氏の意思」があります。仁徳天皇の皇后として葛城出身の磐之媛がいて、それが履中、反正、允恭天皇を生んでいるのです。允恭天皇の対抗馬だった「大草香皇子」は別氏族の母親の子だから、天皇にできなかったのでしょう。できなかったというよりは「したくなかった」。したくないと葛城氏が考えていた。履中天皇には葛城系の皇妃がいて、この子供がのちの仁徳天皇・顕宗天皇の父の磐坂市辺押羽皇子と、御馬皇子(ミマノミコ)です。彼らが天皇になるということは「葛城以外の氏族」が嫌がった。

血筋は葛城で体が不自由だが、人間性が温和な允恭天皇は、葛城vs非葛城の政治闘争の中での「折衷案」「玉虫色の決着」なのでしょう。そこが一番、無難だった。体が不自由というのはマイナスだが、だからこそ、どちらからも警戒されない。履中天皇・反正天皇のように血気盛んでも困る。允恭天皇はおそらく古事記・日本書紀に描かれるように実際に温和な人物だったんじゃないかと思います。
スポンサードリンク

原文

元年冬十有二月、妃忍坂大中姫命、苦群臣之憂吟而親執洗手水進于皇子前、仍啓之曰「大王辭而不卽位、位空之既經年月。群臣百寮、愁之不知所爲。願大王從群望强卽帝位。」然皇子、不欲聽而背居不言。於是、大中姫命惶之、不知退而侍之經四五剋、當于此時季冬之節風亦烈寒、大中姫所捧鋺水溢而腕凝、不堪寒以將死。

皇子顧之驚、則扶起謂之曰「嗣位重事、不得輙就、是以、於今不從。然今群臣之請、事理灼然、何遂謝耶。」爰大中姫命仰歡、則謂群卿曰「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。」於是、群臣大喜、卽日捧天皇之璽符、再拜上焉。皇子曰「群卿共爲天下請寡人、寡人何敢遂辭。」乃卽帝位。是年也、太歲壬子。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集