娘子を奉る…という礼事を言わない皇后

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允恭天皇(九)娘子を奉る…という礼事を言わない皇后

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現代語訳

即位7年冬12月1日。
新室(ニイムロ=新居?)の祝いの宴会をしました。天皇が自ら琴を弾きました。皇后は立って舞いました。舞い終わり、礼事(イヤノコト)を言いませんでした。当時の風俗(ヒト=通俗・風習)は宴会をして舞う人が舞い終わると、その座長(クラカミ)に向かってこう言うものでした。
「娘子(オミナ)を献上いたしましょう」
だから天皇は皇后に言いました。
「どうして常に言う礼を言わないのか?」
皇后は畏まって、また立って舞いました。舞いが終わると
「娘子を奉ります」
と言いました。
天皇は皇后に問い言いました。
「奉る娘子は誰だ?
姓字(カバネナ=姓名)を知りたいと思う」
皇后は止むを得ず、申し上げました。
「わたしめの妹……名を弟姫(オトヒメ)といいます」
弟姫は容姿(カオカタチ)が絶妙(スグレ)ていて、並ぶものはいませんでした。その麗しい色は、衣服を通り抜けて光っているようでした。それでその時代の人は、衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)といいます。天皇の心は衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)に在りました。皇后に無理矢理に献上させました。皇后はこうなることが分かっていたので、たやすく礼事(イヤノコト=「娘子、奉る」という言葉)を言わなかったのです。天皇は歓喜して、翌日、使者を派遣して弟姫を呼び寄せました。
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解説

衣通郎姫
衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)は日本書紀では「皇后の妹」で「允恭天皇の愛人」なのですが、古事記では「允恭天皇の娘」として登場します。ちなみに古事記で描かれた「木梨軽皇子」と「軽大郎皇女(=衣通姫)」の近親相姦は、日本書紀でも後に登場します。しかし日本書紀では「軽大郎皇女=衣通姫」という描かれ方はありません。

この二人の衣通郎姫は同一人物なのでしょうか?
衣通姫というのは時代のスタンダードな表現では?
例えば、「ワンレンボディコン」とか「富士額」とか「国民的美少女」とか「Wアサノ」とか「ツンデレ」とか、時代の中では多様された表現があって、それが後の時代だと特殊に見えるけど、その時代ではよく耳にする表現だったんじゃないかな?と思うのです。「衣通姫」というニックネームがあって、そういう名を冠した人が複数いた、というよりはその時代では美人の事を「衣通姫」という言い方をすることが多かった。
だから木梨軽皇子に襲われる美女も「衣通姫」だし、允恭天皇に言い寄られる皇后の妹も「衣通姫」だった。そもそも「衣通姫」という言い方は、「別名」扱いですから、個人名じゃないんじゃないかと。
そう考えると急に「衣通姫」という名前が安く感じてしまう。まぁ推測ですよ。
もうひとつの考え
わたしは日本書紀・古事記で扱っている物語が実際のその天皇がやったことなのか?というとちょっと疑問なんですよね。その時代にあった「伝承」を取り込んでいるだけなんじゃないか?とも。
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原文

七年冬十二月壬戌朔、讌于新室。天皇親之撫琴、皇后起儛、儛既終而不言禮事。當時風俗、於宴會者儛者儛終則自對座長曰「奉娘子也。」時天皇謂皇后曰「何失常禮也。」皇后惶之、復起儛、儛竟言「奉娘子。」天皇卽問皇后曰「所奉娘子者誰也、欲知姓字。」皇后不獲已而奏言「妾弟、名弟姬焉。」弟姬、容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以、時人號曰衣通郎姬也。天皇之志存于衣通郎姬、故强皇后而令進、皇后知之、不輙言禮事。爰天皇歡喜、則明日遣使者喚弟姬。
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