允恭天皇(十二)皇后の出産の日に藤原に行く

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允恭天皇(十二)皇后の出産の日に藤原に行く

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原文

然皇后之色不平、是以、勿近宮中、則別構殿屋於藤原而居也。適産大泊瀬天皇之夕、天皇始幸藤原宮、皇后聞之恨曰「妾初自結髮、陪於後宮、既經多年。甚哉天皇也、今妾産之死生相半。何故、當今夕必幸藤原。」乃自出之燒産殿而將死、天皇聞之大驚曰「朕過也。」因慰喩皇后之意焉。

現代語訳

しかし皇后は色(ミオモエリ=顔色)が良くありませんでした。それで宮中(ミヤノウチ)に近づけることができず、別に殿屋(トノ)を藤原(フジハラ=奈良県橿原市高殿町の藤原宮の近く?)に立ててそこに弟姫を居らせました。皇后が大泊瀬天皇(オオハツセノスメラミコト=雄略天皇)を生んだ日の夕方に天皇は初めて藤原宮へと行きました。皇后は(その出産中に藤原宮へと行ったことを)聞いて恨んで言いました。
「わたしめは初めて結髪(カミナイ)して後宮(キサキノミヤ)に入ってから既に何年も経ちました。ひどいことです。天皇は今、わたしめが出産して生き死に相半ばです。どういうことか、今宵に藤原へ行ったのですか!!」
そう言って、自ら産殿(ウブドノ=出産のための小屋)を焼いて死のうとしました。天皇はそれを聞いて、大いに驚いて言いました。
「わたしは間違っていた」
それで皇后の心を慰めようと色々と骨を折りました。
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解説

皇后と妃の関係
皇后というのは正室で、妃は側室というか愛人というかそういう立場で、弟姫は皇后の妹で若い。男ってのは若い女が好きなんですよね。長い間、顔を見てきた正室よりも、若くてピチピチした妹。まーしょうがないかなぁ。

それに手に入れるのに苦労しましたからね。それで正室である皇后が出産する時に、側室の藤原宮へと行ってしまって正室の機嫌を損ねてしまった。産屋に火を放とうとするくらいだから相当なご立腹です。まぁ、ありがちな話です。でも、ちょっと待ってほしいのですね。
神話かそれとも史実か
允恭天皇と皇后と弟姫の話は、まぁ史実でもなんらおかしくないのですね。でもちょっと待ってほしいのです。というのも古事記・日本書紀の過去の神話の中にも非常に良く似たケースがあるのです。

例えば、弟姫が天皇の申し出を断るというのは、どうも「そういう結婚儀礼」だったのかもしれません。過去の妻問いでも、「最初は一旦断る」というのが普通なのです。そういうものだったのでしょう。例の一つとしては「ヤチホコ神のプロポーズ」「ヤチホコのラブソング?」「ヌナカワヒメは戸を開けない」「鳥は夫を慕う」「ヌナカワヒメの逢瀬の約束」「翌日の夜に結ばれる二人」の流れの中の拒絶と受け入れです。

また、正室の嫉妬を恐れるというのも神話の中に見られます。

そして「出産のときに火をつける」というのは、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の出産のときと全く一緒です。ニニギの時は「父親は俺じゃないでしょ?」と疑ったことで、木花咲耶姫をブチ切れさせましたが、今回の允恭天皇は出産のときに愛人のところに行くという粗相をしてブチ切れです。

人間の本質か? 神話の踏襲か?
粗相をして妻を切れさせてしまうというのは、いつの時代でも男がやりがちなことですし、側室が正室の嫉妬を恐れるというのは、まぁ当たり前の話です。出産と火が絡まっていたり、プロポーズを一旦断るというのは、古代の日本人の「思想」の表れでしょう。だから、允恭天皇のこれらの物語が「創作」ということではなく、この時代の人が「側室を得る」「妻を怒らせる」という史実を物語という形で描いた時に、その時代の「文化」「思想」というのは当然からませざるを得ないということです。それに現在のように情報の精度も低いわけですから、情報の欠けた部分は推測で埋められるでしょう。すると、どこか神話のような、史実のような、曖昧な物語となってしまう。だから細部で言えば誇張もあるが、大まかには史実なんだろうと。

それが古事記や日本書紀、というのが個人的な見解です。
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