奈能利曾毛と藤原部

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允恭天皇(十五)奈能利曾毛と藤原部

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現代語訳

即位11年春3月4日。茅渟宮(チヌノミヤ)に允恭天皇は行きました。衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)は歌を歌いました。
とこしへに 君もあへやも いさな取り 海の浜藻(ハマモ)の 寄る時時(トキトキ)を
歌の訳いつまでも変わらずに君と会えるとは限りません。(「いさな取り」は海にかかる枕詞)海の浜の藻が寄せては返すように、時々しか会えません。

天皇は衣通郎姫に語って言いました。
「この歌は他人に聞かせてはいかねいよ。皇后が聞けば、必ずとても恨まれるだろう」
その時代の人はその浜の藻を名付けて奈能利曾毛(ナノリソモ=無+告+藻…で誰にも告げてはいけない藻という意味)と言いました。

これより以前のことです衣通郎姫は藤原宮に居ました。そのときに允恭天皇は大伴室屋連(オオトモノムロヤノムラジ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)はこの頃、美麗な嬢子(オミナ=女性)を得た。皇后の母弟(オモハラカラ=同母妹)だ。わたしの心は特別に愛おしいと思っている。願わくば、その名を後葉(ノチノヨ=後世)に伝えたいと思うが、どうか?」
室屋連(ムロヤノムラジ)は勅(ミコトノリ=天皇の発言)に申し上げました。それで諸国の国造(クニノミヤツコ)に科して衣通郎姫のために藤原部を定めました。
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解説

茅渟へと移り住む前に、藤原宮に住んでいた衣通郎姫に「藤原部」を定めた…というお話です。古代では皇女や皇子の名前を冠した「部民」を定めることで、その名前を残そうとすることがありました。藤原部というのは、衣通郎姫の名前を残すためのものです。

しかし変な話だと思うのですよね。衣通郎姫は藤原という土地の宮に引っ越したから「藤原」が通称なんですよ。これは他の皇子皇女も同じなんですから、普通といえば普通なんですが、納得出来ないんですよね。

例えば、なんですが、広島に住んでいる「ある人物」…仮に「花子さん」としましょう。その花子さんが、他の地域から「広島の花子さん」と呼ばれていたとしてですよ。その名前を残したいなぁ、と思って「広島部」という部民を残すって、本末転倒だと思いませんか?

これ逆じゃないか?と思うんです。

藤原という地域があって、そこの住民が有力者を祭り上げた。有力者というか「女神」か、もしくは女神を祀る巫女か……それが「弟姫」であり、「衣通郎姫」であり、古事記では「藤原琴節郎女」だった。だからその地域の住民を「藤原部」と呼んだ。卓球部とか野球部とかサッカー部の部員って山田も山本も近藤も居ますよね。そういう風に特定の氏族ではなく、同じ地域の集団を「部民」という言い方で括った。それが藤原部だったんじゃないかでしょうか。弟姫ではなく、藤原部が先ってことです。

あと、皇女が巫女として祭り上げられるというのは、皇女は「霊威が強い」という前提があって、地域に派遣されたとか、そういう背景があったんじゃないかなぁ、と思うのです。皇女を伊勢神宮の斎宮として派遣したというのもありますし、皇女というのはこの時代から単なる「プリンセス・お姫様」ではなく、政治的に大きな意味を持つ存在だったんじゃないかと。

その地域でうまく立ち回ってメキメキと頭角を現したのが弟姫で、それを皇后は妬ましく思った。そこで藤原から茅渟へと左遷させた。そういう恋愛ではなく政治的な事情があったのではないかと思うんです。
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原文

十一年春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮、衣通郎姬歌之曰、
等虛辭陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舍儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘
時天皇謂衣通郎姬曰「是歌不可聆他人、皇后聞必大恨。」故時人、號濱藻謂奈能利曾毛也。先是、衣通郎姬居于藤原宮、時天皇詔大伴室屋連曰「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何。」室屋連、依勅而奏可、則科諸國造等、爲衣通郎姬定藤原部。
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