御馬皇子は三輪君身狹を頼る

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雄略天皇(六)御馬皇子は三輪君身狹を頼る

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原文

是月、御馬皇子、以曾善三輪君身狹故思欲遣慮而往、不意、道逢邀軍、於三輪磐井側逆戰、不久被捉。臨刑、指井而詛曰「此水者百姓唯得飲焉、王者獨不能飲矣。」

現代語訳

この月(安康天皇即位3年冬10月)、御馬皇子(ミマノミコ=市辺押磐皇子の兄弟)は昔から三輪君身狭(ミワノキミムサ)を良しと思っていたので、その考えを伝えようと思って向かいました。不意に道を遮る軍隊に会い、三輪磐井(ミワノイワイ)のほとりで戦闘になりました。間もなく捕らえられ、刑に処される間際に、井戸を指差して呪いを掛けました。
「この水は百姓だけが飲むことが出来る。
王者はただ一人、飲むことができない」
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解説

御馬皇子
履中天皇の子で市辺押磐皇子の兄弟。市辺押磐皇子は「雄略天皇(五)近江の来田綿での市辺押磐皇子の暗殺」で殺されていますから、雄略天皇即位3年の冬10月のたった1ヶ月の間に兄と弟が殺されたということになります。

ちなみに雄略天皇は允恭天皇の子で、允恭天皇と履中天皇は兄弟ですから、市辺押磐皇子と御馬皇子は雄略天皇から見ると「いとこ」にあたります。
三輪君身狭
三輪君身狭は日本書紀や古事記では他に見られない名前です。三輪君身狭は大三輪神社の宮司の高宮家の家系図に登場していることから大三輪神社の神主だと思われます。当時、神社は汚れを嫌い、罪を祓うという性質から、罪人が逃げ込む場所とされました。神社に逃げれば命だけは救われたわけです。御馬皇子は政敵である雄略天皇に追われ、三輪君に助けを求めた。三輪君身狭は神主であり、当然ながら有力氏族だったハズです。命を助けてもらい、その後は助力で立て直して、雄略天皇に立ち向かうつもりだったのかもしれません。そういう事情が「昔から良く思っていた。その気持ちを伝えようと・・・」三輪へ向かった、という文章になったのではないか?と思われます。
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