池津媛と石川楯の姦淫と蓋鹵王

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雄略天皇(十)池津媛と石川楯の姦淫と蓋鹵王

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現代語訳

即位2年秋7月。百済の池津媛(イケツヒメ)は天皇が妃として貰いに行こうとしたというのに、裏切って石川楯(イシカワノタテ)と姦淫しました。
古い本によると石河股合首(イシカワノコムラノオビト)の祖先の楯(タテ)といいます。

天皇は怒って、大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)に詔(ミコトノリ)して、来目部(クメベ)を派遣して、夫婦の両手足を木に張って、假庪(サズキ=桟敷=出し物の舞台)に置いて、火で焼き殺しました。
百済新撰によると己巳年(ツチノトミノトシ)に蓋鹵王(カフロオウ)が立ちました。天皇は阿禮奴跪(アレナコ)を派遣して、女郎(エハシト)を探しました。百済は慕尼夫人(ワニハシカシ)の娘を着飾って、適稽女郎(チャクケイエハシト)だと言いました。天皇に献上しました。
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解説

池津媛
池津媛はどう考えても朝鮮の名前ではないので、帰化したか、最初から倭人かでしょう。石川楯は河内国石川郡の氏族と思われます。ではこの事件はどこで起きたのか? 日本で起きたと考えるのが筋、と思うのですが。
蓋鹵王
この蓋鹵王の在位期間が三国史記によると455年から475年。そんで己巳年にあたるのが429年か489年。つまり絶対に合わない。だから日本書紀は怪しいんだよなぁ、と言う人も多いのですが、ちょっと待て。

百済は慕尼夫人(ワニハシカシ)の娘を着飾って、適稽女郎(チャクケイエハシト)だと言いました。天皇に献上しました。
この話によく似たものが三国史記新羅本記の312年にあるんですよね。倭の王が新羅王の娘を嫁によこせと要求してきたから、部下の娘を嘘ついて送った・・・ってのがあるんですよ。ほぼ同じですよね。
もしかしてこういうことじゃないか?
そもそも三国史記ってのが怪しいのです。三国史記は高麗が作った史書で、高麗は新羅から国を移譲してもらったという経緯があって、その新羅が朝鮮半島を統一した経緯を書いたのが三国史記なんですね。新羅はすごい歴史があって大国。その新羅から譲ってもらった高麗はすごい。という筋書きが三国史記の「目的」なんです。

しかしどう考えても新羅ってのは歴史が浅いのです。新羅が半島を統一したのは事実ですが「歴史は浅い」のです。これは間違いない。王の系譜が変なのもそこいらへんが理由でしょう。しかし歴史が浅いとなると歴史書は困る。書くことがない。そこで「百済の歴史をパクった」んじゃないか?というのがわたしの意見です。

百済の王は昔、天皇に娘をよこせと言われて、部下の娘を偽って差し出した。まぁ古代のことですから、誰が誰かなんて分かりっこない。そういう「ざまぁみろ」的な事件があって、それが伝承か本で残っていた。それを三国史記で描いたときに、新羅の物語として残した。天皇を騙したという手柄は新羅へと持たせたかったのでしょう。

ところが日本も日本書紀を残していた。その中に「百済の王が部下の娘を偽ってよこした」という記述を残した。時が過ぎて、現代。日本の歴史家は朝鮮併合だとか戦争の罪悪感から「古代の朝鮮半島は先進国だった」という考えを持っていたから、三国史記の記述を鵜呑みにした。

わたしは三国史記の年表って疑った方がいいと思うのですよ。辻褄があってることを指摘する人もいますが、合ってる方が不思議でしょう。三国史記が成立している12世紀には当然ながら中国の歴史書は出揃っていて、手に入りやすかったハズです。辻褄を合わせるのはなんら難しくないのです。百済と新羅の初期は国家の体をなしてなく、複数の小さな国があったはずです。それらの国のそれぞれの王と神話を縦に並べたのが「三国史記」なんじゃないか?と。
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原文

二年秋七月、百濟・池津媛、違天皇將幸、婬於石河楯。舊本云「石河股合首祖、楯。」天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部、張夫婦四支於木、置假庪上、以火燒死。百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立。天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟、莊飾慕尼夫人女、曰適稽女郎、貢進於天皇。」
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