加須利君は軍君を日本に派遣する

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雄略天皇(十八)加須利君は軍君を日本に派遣する

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現代語訳

(即位5年)夏4月。百済の加須利君(カスリノキシ)が…
蓋鹵王(カフロオウ)です。

人伝てに池津媛(イケツヒメ)が焼き殺されたことを聞いて、
適稽女郎(チャクケイエハシト)です。

話し合って言いました。
「昔、女人(オミナ)を献上して采女(ウネメ)としました。しかし礼儀がなくて、我が国の名声を失ってしまいました。今より以後は女を献上するべきではない」
その弟(イロド)の軍君(コニキシ=王)に…
崑支君(コニキ)です。

告げて言いました。
「お前、日本に行き、天皇に仕えろ」
軍君は答えて言いました。
「上君(キミ)の命令に逆らうべきではありません。願わくば、君の婦(メ=愛人)をいただいて、そうして後に日本に行きましょう」
加須利君(カスリノキミ)はすでに妊娠している婦(メ)を軍君に嫁に与えて言いました。
「わたしの妊娠ている婦(メ)はすでに臨月だ。もし、道の途中で産まれた場合は、願わくば婦と生まれた子を一つの船に乗せて、どこにあっても速やかに国に送りなさい」
それでお互いに別れの言葉を交わして、朝廷に派遣しました。

6月1日。妊娠していた婦が、加須利君が言ったように筑紫の各羅嶋(カカラノシマ)で児(コ)を生みました。それでこの児を嶋君(セマキシ)といいます。軍君はすぐに一つの船で嶋君を国に送りました。これが武寧王(ムネイオウ)です。百済の人はこの嶋を主嶋(ニリムセマ)といいます。

秋7月に軍君は京へと入りました。すでに5人の子がありました。
百済新撰によると、辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支君(コニキキシ)を派遣して大倭(ヤマト)に詣でて、天王(スメラミコト)と仕えた。兄王の好みを修めた、とあります。
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解説

池津媛と蓋鹵王
以下のページによると、蓋鹵王が天皇の妃にと日本に派遣した「池津媛」が、石川楯という人物と結婚してしまって、二人ともが天皇によって「処刑」されてしまいます。

女を送って百済は恥をかかされたので、これからは女じゃなくて「男」を朝廷に派遣するようにしたわけです。その男ってのが蓋鹵王の弟の「軍君」です。軍君は名前ではなくて役職名でしょう。軍君が日本に行くにあたって、蓋鹵王の愛人の一人を求めた。ところがその愛人はすでに妊娠していて、
「もしも、日本に行く途中で生まれたときは、母子を船に乗せて国に帰せ」
と言うわけです。

これってどういう意味なんでしょう?

史実というよりは儀式や風習じゃないか?と思うんですよね。
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原文

夏四月、百濟加須利君(蓋鹵王也)、飛聞池津媛之所燔殺(適稽女郎也)而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君(崑支君也)曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」
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