日鷹吉士堅磐固安錢が連れ帰った工人

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雄略天皇(二十六)日鷹吉士堅磐固安錢が連れ帰った工人

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原文

天皇、聞弟君不在、遣日鷹吉士堅磐固安錢堅磐、此云柯陀之波使共復命、遂卽安置於倭国吾礪廣津(廣津、此云比盧岐頭)邑。而病死者衆、由是、天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。或本云「吉備臣弟君、還自百濟、獻漢手人部・衣縫部・宍人部。」

現代語訳

天皇は弟君が不在だということを聞いて(樟媛に殺された)、日鷹吉士堅磐固安錢(ヒタカノキシカタシハコアンゼン)…
堅磐は柯陀之波(カタシハ)と読みます。

を派遣して、復命(カエリコトモウサス=結果の報告のこと)させました。すぐに倭国の吾礪廣津邑(アトノヒロキツノムラ=河内国渋川郡跡部郷?=現在の大阪府八尾市植松町付近?)に安置(ハベラシ)しました。
廣津は比盧岐頭(ヒロキツ)と読みます。

病気になって死ぬものが多かったです。それで天皇は大伴大連室屋(オオトモノオオムラジムロヤ)に詔(ミコトノリ)して東漢直掬(ヤマトノアヤノアタイツカ)に命令して新漢陶部高貴(イマキノアヤノスエツクリコウクイ)・鞍部堅貴(クラツクリケンクイ)・画部因斯羅我(アカキインシラガ)・錦部定安那錦(ニシゴリジョウアンナコム)・訳語卯安那(オサメウアンナ)たちを、上桃原(カミツモモハラ)・下桃原(シモツモモハラ)・真神原(マカミノハラ)の三箇所に移して居らせました。
ある本によると吉備臣弟君は百済から帰って、漢手人部(アヤノテヒトベ)・衣縫部(キヌヌイベ)・宍人部(シシヒトベ)を献上しました。
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解説

日鷹吉士堅磐固安錢
一人の人間の名前とも、二人ともハッキリとした答えは無いです。日高は紀伊国に「日高郡」があり、吉士は渡来系の姓なので、「日鷹吉士」が一括りだと思われるが、「堅磐固安錢」で一人の名前か、二人の名前かは不明。「堅磐」を筑紫国の穂波郡堅磐郷のこととする説もあって、とにかく不明。
その他いろいろと不明
弟君が樟媛に殺されたことを聞いた天皇は日鷹吉士堅磐固安錢を派遣して、結果の報告をさせました。そして様々な工人を連れ帰りました。最初に河内の広津という土地に置いていたのですが、病気で死んだので、別の場所に移動させました。

その工人の名前が後半に羅列してあります。詳細はいずれ更新しようと思います。

それより、最後に「別の本によると…弟君が実は百済から帰って工人を献上した」と書いてあるのが変ですよね。弟君は生きていて帰って来て、しかも工人を献上したとなったら、これまでの話がヒックリ帰ってしまいます。

これまでの話はもしかすると大半が神話や伝承ということかもしれません。ただ、吉備と朝廷の間に何かトラブルがあって、吉備勢力を削いだのは事実だと思います。それが田狭の妻を寝とったかというと、怪しいというだけで。
個人的にこういうことじゃないか?
日本の神様は一対です。神世七代のところもまぁ一対になっています。有名なところではイザナギイザナミもです。おそらく日本の神様は基本的に一対だったのだと思います。それは「大国主」と「少那彦」のような「大小」という組み合わせもありますが、大抵は「男女」の「夫婦であり兄妹」という組み合わせだったのでしょう。

例えばある地域を服属させた場合、その地域の女神は、支配地域の神に嫁に行きます。これが大国主がたくさんの妻を持つ物語になって行くわけです。では男神はどうなっていくのか? 消えていくのが大半でしょうが、地域の信仰が厚い場合は、支配地域の神と同化していきます。それが「吉備津彦」です。本来は吉備の神だった吉備津彦は日本書紀では孝霊天皇の子供として登場します。

わたしは、この田狭と弟君の物語は、そもそもが地域の伝承や神話としてあったものを、史実を絡めて吸収した結果ではないかと思っています。
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