直丁の批判から鳥養部が設置される

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雄略天皇(四十一)直丁の批判から鳥養部が設置される

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原文

冬十月、鳥官之禽、爲菟田人狗所囓死。天皇瞋、黥面而爲鳥養部。於是、信濃国直丁與武藏国直丁、侍宿、相謂曰「嗟乎、我国積鳥之高、同於小墓。旦暮而食、尚有其餘。今天皇、由一鳥之故而黥人面、太無道理、惡行之主也。」天皇聞而使聚積之、直丁等不能忽備、仍詔爲鳥養部。

現代語訳

(即位11年)冬10月。鳥官(トリノツカサ)の禽(トリ)が菟田(ウダ)の人の狗(イヌ)に噛まれて死にました。天皇は怒って黥面(=顔に入れ墨を入れること)にして鳥養部(トリカイベ)としました。信濃国の直丁(ツカエノヨオロ=役人の位の名前)と武蔵国の直丁とが宿に泊まりました。そこで語り合って言いました。
「あぁ! わたしの国で積み上げた鳥の高さは小墓(オツカ)と同じくらいだ(そのくらいに沢山、鳥が居る)。朝夕に食べても、まだ余りある。今、天皇がひとつの鳥のせいで人の顔に黥面(=入れ墨)した。これはひどく道理が通らない話だ。悪行がひどい王だ!」
天皇はこの話を聞いて、直丁たちに鳥を全部、集めさせました。直丁たちには全ての鳥を集めることが出来ませんでした。それで詔(ミコトノリ)して鳥養部としました。
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解説


ほぼ同じ話が「雄略天皇(三十八)呉国からのガチョウを水間君の犬が噛み殺す」にあります。これもガチョウをイヌが噛み殺したことで「養鳥人」が倭へと移民した話になっています。

もしかすると「雄略天皇(三十九)白い鸕鷀がいたから川瀬舎人を置く」も、鳥を飼う人の起源説話かもしれません(というかそう考えたほうが妥当)。
信濃と武蔵
この二つの国は雄略天皇のあたりで倭に帰属した地域です。ここで名前が出るというのはそういう意味もあるでしょう。大和朝廷に参加したから、物語が組み込まれた。

個人的にはこういうことだと思います。

日本人は神を祀るのに「料理」「歌」「踊り」「相撲」に並んで「物語」を捧げる風習があった。良い物語は、神様を感動させ、その結果、戦争に勝ったり、天変地異を避けたり、五穀豊穣になったりする。だから大和朝廷は参加した国々の「物語」を収集したんじゃないかと。

王に命令されて鳥を集めたけど、集めきれずに、その処理に困って鳥を飼う役職が生まれた……みたいな伝承があったんでしょうね。

だからこのページの物語は元々は信濃国・武蔵国などであった物語だった。伝承自体は古く、そこには天皇は関わっていなかった。名前が「鳥養部」ではないでしょうが、それ以前から鳥を飼う人はいた。まぁ、居たでしょうよ。当たり前です。

鳥をこの「禽」で表現しているということは猛禽類だったのかも。
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