根使主の子孫を皇后と茅渟県主と難波吉士日香々に与える

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雄略天皇(四十八)根使主の子孫を皇后と茅渟県主と難波吉士日香々に与える

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原文

天皇聞驚大怒、深責根使主、根使主對言「死罪々々、實臣之愆。」詔曰「根使主、自今以後、子々孫々八十聯綿、莫預群臣之例。」乃將欲斬之、根使主逃匿、至於日根造稻城而待戰、遂爲官軍見殺。天皇命有司、二分子孫、一分爲大草香部民以封皇后、一分賜茅渟縣主爲負嚢者。卽求難波吉士日香々子孫賜姓爲大草香部吉士、其日香々等語在穴穗天皇紀。事平之後、小根使主(小根使主、根使主子也)夜臥謂人曰「天皇城不堅、我父城堅。」天皇傳聞是語、使人見根使主宅、實如其言、故收殺之。根使主之後爲坂本臣、自是始焉。
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現代語訳

天皇はそれを聞いてとても怒り、根使主(ネノオミ)を深く責めました。根使主は答えて言いました。
「死罪死罪(ウベナリ=敬意と謝意を表す慣用句で深い意味は無い)、まことにわたしめの過ちです」
詔(ミコトノリ)して言いました。
「根使主は今より以後、子々孫々八十聯綿(ウミノコノヤソツヅキ=聯は「連」と同義)に群臣(マヘツノクミタチ)の例(ツラ)に預けてはいけない」
それで斬り殺そうとしました。根使主は逃げ隠れて、日根(ヒネ=和泉国日根郡)に至って、稲城(イナキ=稲で作った城)を作って待ち戦いました。ついに官軍に殺されました。天皇は有司(ツカサツカサ=官僚・役人)に命じて、(根使主を)二つの子孫に分けて、一部を大草香部(オオクサカベ=和泉国大島郡日下部郷?)の民として、皇后に与えました。一部を茅渟県主(チヌノアガタヌシ)に与えて、負嚢者(フクロカツギビト)としました。難波吉士日香々(ナニワノキシヒカカ)の子孫を探し求めて、姓を与えて大草香部吉士(オオクサカベノキシ)としました。その日香香(ヒカカ)たちの語(コト=物語のこと)は穴穂天皇の紀にあります。事が平定した後に、小根使主(オネノオミ)は夜臥(フ)して人に語りました。
小根使主は根使主の子です。

「天皇の城は堅くない。わたしの父の城は硬い」
天皇は人伝てにこの語(コト)を聞いて、使者を送って根使主の宅(イエ)を見させました。本当にその言葉の通りでした。それで捕らえて殺しました。根使主が後に坂本臣(サカモトノオミ)となったのはこれが始まりです。
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解説

稲城
垂仁天皇(九)倭日向武日向彦八綱田
狹穗彦は師(イクサ=軍)を起こして、迎え撃ちました。たちまち稲を積み上げて城を作りました。それが固くて破れません。これを稲城(イナキ)といいます。

難波吉士日香々
難波吉士日香々は大草香皇子の部下で大草香皇子が安康天皇に殺されたときに、大草香皇子を追って死んでしまった忠臣。この難波吉士日香々に根使主の子孫の一部を与えた、ということです。
安康天皇(四)根使主は押木珠縵に目が眩む。大草香皇子の死
この時、難波吉師日香蛟(ナニワノキシヒカカ)の父と子は大草香皇子に仕えていました。その君が無罪なのに死んでしまうことに心を痛めて、父は王(=大草香皇子)の首を抱き、二人の子はそれぞれ王(=大草香皇子)の足を持ち、唱えて言いました。
「我が君!
罪も無く死んでしまうこと!
なんと悲しいことか!
我々、父子三人は生きていたときに仕えだのならば、死んで殉死しないなど臣下とは言えないだろう!」
すぐに自ら首を刎ねて、皇子の遺体のそばで死んでしまいました。
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