475年高麗は百済を攻め滅ぼす

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雄略天皇(五十四)475年高麗は百済を攻め滅ぼす

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現代語訳

即位20年冬。高麗王は大きな軍兵を起こして、征伐に行って百済を滅しました。少しばかりの敗残兵が居て、倉下(ヘスオト=百済の言葉=倉の下)に集まっていました。兵の食料はすでに尽きて、憂い泣く思いは深いものになっていました。高麗のもろもろの将は王に言いました。
「百済の心は非常(オモイノホカニアヤシ=常ではない=現在は敗北に打ちひしがれているが、心は変わり、いずれ反逆するだろうという意味)です。わたしが百済を打ち倒すたびに、我を忘れ、自分を失っているのです。恐ろしいことにいずれはまた、はびこるでしょう。請い願います。百済人を駆逐し、この土地から除いてしまいましょう」
王は言いました。
「それはよくない。
わたしが聞いたところ、百済国は日本国の官家(ミヤケ=直轄地)として由来は古くからある。またその王は日本に参上して天皇に仕えている。四隣(ヨモ=四方の土地)でも知られているところだ」
それで征伐を止めました。
百済記によると、蓋鹵王(カフロオウ)の乙卯年(西暦475年)冬、狛(コマ=高麗のこと)の大軍が来て、大城(コニキシ)を七日七夜、攻めました。王城は降陷(ヤブ)れて、尉礼(イレ)を失いました。国王と大后と王子たちは皆、敵の手に掛かって死にました。
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解説

高句麗が百済を攻めて百済の首都である漢城を攻めて百済王の蓋鹵王を殺したことは三国史記にもあります。
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原文

廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。爰有小許遺衆、聚居倉下、兵糧既盡、憂泣茲深。於是、高麗諸將、言於王曰「百濟、心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生。請遂除之。」王曰「不可矣。寡人聞、百濟国者爲日本国之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」遂止之。百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、国王及大后、王子等、皆沒敵手。」
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