尾代は弓で蝦夷を射殺す

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雄略天皇(六十)尾代は弓で蝦夷を射殺す

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現代語訳

このとき、征新羅將軍吉備臣尾代(シラキヲウツイクサノキミキビノオミオシロ)は吉備国に到着して家に立ち寄りました。その後から率いて来た500人の蝦夷たちは天皇が崩御したと聞いて、語り合っていました。
「我が国を統べ納めていた天皇はすでに崩御した。
この時を逃すな!」
それで集まって結束して、近くの郡を襲いました。それで尾代(オシロ)は家から来て、蝦夷と娑婆水門(サバノミナト=備後国沼隈郡佐波村=広島県福山市佐波町)で会い、合戦して弓を射ました。蝦夷たちはあるいは踊り、あるいは伏しました。矢を避けて脱けました。ついに射殺すことができませんでした。それで尾代は空のままで弓の弦を弾きました。海浜(ウミヘタ)の上で、踊り伏した者、二隊を射殺しました。2筒ぶんの矢を使いきりました。すぐに船人(フナビト)を呼び寄せて、矢を探させました。船人は恐れて、自然と退いて行きました。尾代あ弓を立てて、末(ユミハズ=弓の端)を持ち、歌を歌いました。
道にあふや 尾代の子 母(アモ)にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな
歌の訳道で会った尾代(オシロ)の子。母には聞こえないだろうが、国の人には聞こえるといいなぁ

歌い終わって、自ら数多の人を斬り殺しました。また追って、丹波国の浦掛水門(ウラカケミナト=京都府熊野郡久美浜町浦明?)に到着してことごとく攻め殺しました。
ある本によると、追って浦掛に到着してからは、人を派遣して全員を殺したといいます。
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解説

これで雄略天皇はお終い。
長かった。
空の弓を弾くこと
日本では拍手や雄叫びといった「音」が魔を払うという感覚があり、空の弓を弾いて音を鳴らすことで、魔を祓い、その結果、蝦夷を射殺すことが出来たということかと。

ちなみにここでの蝦夷はヤマトタケルが東北から連れてきて、その後、熱田、三輪とたらい回しにされた挙句、中国四国の土地に配置された「佐伯」ではないかと思われます。

蝦夷は伊勢に行くと「騒がしく」、これはダメだとなって三輪に行き、三輪でも騒いで追い出されて、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波へと流されました。そのうちの安芸の佐伯ではないかなと。

どうも蝦夷こそが「音=魔を祓う」感覚を持っていたのではないかと思うんですよね。これだけあちこちで騒がしいのはそういう「儀式」があったからだろうと。尾代が「空の弓を弾いた」というのは、そういう意味もあったのでは?と。では吉備や大和には「音が魔を払う」という感覚が無かったかというと、そういうこともない。神武天皇は長髄彦に敗戦した後に「雄叫び」をあげています。似たような文化があったのは間違いない。

わたしとしては蝦夷と大和とかその他の地域は文化が違うといっても、全く違うのではなく、共通していた文化もたくさんあったんじゃないか?と思うのですね。
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原文

是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、
瀰致儞阿賦耶 鳴之慮能古 阿母儞舉曾 枳舉曳儒阿羅毎 矩儞々播 枳舉曳底那
唱訖、自斬數人、更追至丹波國浦掛水門、盡逼殺之。一本云「追至浦掛、遣人盡殺之。」
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