億計王の立太子と飯豊皇女のまぐわい

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清寧天皇(七)億計王の立太子と飯豊皇女のまぐわい

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原文

三年春正月丙辰朔、小楯等、奉億計・弘計、到攝津国。使臣連持節、以王靑蓋車、迎入宮中。夏四月乙酉朔辛卯、以億計王爲皇太子、以弘計王爲皇子。

秋七月、飯豊皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」此曰有夫、未詳也。九月壬子朔癸丑、遣臣連、巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉、詔「犬・馬・器翫、不得獻上。」十一月辛亥朔戊辰、宴臣連於大庭、賜綿帛、皆任其自取、盡力而出。是月、海表諸蕃、並遣使進調。

現代語訳

即位3年春1月1日。小楯(オダテ)たちは億計・弘計を崇め奉り摂津国に到着しました。臣・連に命じて節(シルシ)を持たせ、王(ミコ)の靑蓋車(ミクルマ)で宮中へと迎え入れました。

夏4月7日。億計王(オケノミコ)を皇太子としました。弘計王(オケノミコ)を皇子としました。

秋7月。飯豊皇女(イイトヨノヒメミコ=億計・弘計の姉)は角刺宮(ツノサシミヤ=奈良県北葛城郡新庄町忍海)で与夫初交(マグワイ=初夜=夫婦となること)しました。人に語って言いました。
「女の道の一端を知った。なにもおかしなことはない。もう男と交わることは願わない」
夫が居ると言っているが、未だに詳細は分からない。


9月3日。臣・連を派遣して風俗を巡視させました。

冬10月4日。詔(ミコトノリ)しました。
「犬・馬・器翫(モテアソビモノ)を献上するな」

11月18日。臣・連は大庭で宴会をしました。綿・絹を与えました。皆、力の限り、取れるだけ取って、出て行った。

この月に海外の諸国は使者を派遣して貢ぎ物を奉った。
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解説

謎の女、飯豊皇女
市辺押磐皇子の娘で、億計・弘計の姉とも書かれます(日本書紀の顕宗天皇紀)が、履中天皇の娘で市辺押磐皇子とは兄妹とも書かれています(日本書紀の別伝・古事記)。
どっちが本当なのか?
古事記では一時的に天皇の位を預けたリリーフピッチャーのように描かれています。このページでも「まぐわった」が「もうまぐわらない」と書いてあるように、言い訳めいた「清らかさ」をアピールしているところを見ると、天皇に近い扱いがあったんじゃないか?とも思います。
仮説
雄略天皇が皇女を欲しがったことや、天皇の皇后にはあくまで皇女が当てられていること(が多い)を考えると、天皇と皇后は単なる夫婦ではなく、皇后には政治的な役割があったんじゃないかと思います。

皇女を娶ることは天皇になる条件。だとすると、皇女にはどういう意味があったのか? 皇女は天皇の娘だから「霊威」が強い。つまり巫女の役割があった。皇后と天皇の関係は、神功皇后仲哀天皇、もしくは武内宿禰に近いものがあった。皇后が神の神託を受けて、天皇がそれを解釈する。そういう関係があった。この雄略天皇の時代にそういう役割分担が実際にあったのかは分かりませんが、皇女・皇后にそういう「意味合い」があった。あったからこそ、飯豊皇女に一時的な権力委譲があった。飯豊皇女が神託を受けたとか、実際に巫女業務をしたとかではなく、とりあえず飯豊皇女に権力を委譲することが、連・臣・役人にとって「納得しやすかった」のではないかと。そういう土壌が「皇女・皇后が巫女をやっていた」という過去にあったのではないかと思います。
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