顕宗天皇(一)出自と所信表明

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顕宗天皇(一)出自と所信表明

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現代語訳

弘計天皇(オケノスメラミコト)…
別名を来目稚子(クメノワクゴ)と言います。

は、大兄去来穗別天皇(オオエノイザホワケノスメラミコト=履中天皇)の孫で、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ=履中天皇の皇子)の子です。母を荑媛(ハエヒメ)といいます。
荑は波曳(ハエ)といいます。譜第(カバネツイデノフミ)によると
「市辺押磐皇子は蟻臣(アリノオミ)の娘の荑媛(ハエヒメ)を娶りました。三男二女が生まれました。その一人が居夏姫(イナツヒメ)と言います。二人めが億計王(オケノミコ=仁賢天皇)で別名を嶋稚子(シマノワクゴ)、大石尊(オオシノミコト)といいます。三人目が弘計王(オケノミコ)、別名を来目稚子(クメノワクゴ)と言います。四人目が飯豊女王(イイドヨノヒメミコ)、別名を忍海部女王(オシヌミベノヒメミコ)と言います。五人目が橘王(タチバナノミコ)と言います。」
ある本によると、飯豊女王(イイドヨノヒメミコ)を億計王の上(=姉)としている。蟻臣(アリノオミ)は葦田宿禰子(アシダノスクネ=葛城襲津彦)の子です。

天皇は長く辺境(=播磨で使役されていたこと)に居ました。そこで全ての百姓が憂い苦しんでいるのを知りました。いつも道理を曲げて屈服させられる様を見て、身体をドブに投げ入れられるように思っていました。だから徳を広め、恵(メグミ=愛)を施し、政令(マツリゴト)を行い、貧しきものに与え、孀(ヤモメ=独り者=年を取って配偶者を失った人)を養い、天下を親しみ、付き従うことにしました。
古事記の対応箇所
顕宗天皇の妃と子について
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解説

履中天皇の孫、かつ、市辺押磐皇子の子。市辺押磐皇子の母親は草香幡梭皇女で、葛城氏ではないのですが、履中天皇の母は葛城磐之媛。市辺押磐皇子の妻は葛城襲津彦の子の葦田宿禰の娘。と、そういうことを考えると顕宗天皇は葛城系ということになります。

ところで顕宗天皇・仁賢天皇の本名が「弘計天皇」と「億計天皇」なのですね。短すぎませんか? いくらなんでも。どちらも「オケ」と書いていますが正確には「ヲケ」と「オケ」で発音が違うのですね。この「ヲケオケ」というのが、民族舞踊の掛け声だったとも言われ、それが播磨で使役されていたという出自と関係あるのではないか?とも。
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原文

弘計天皇(更名來目稚子)、大兄去來穗別天皇孫也、市邊押磐皇子子也。母、曰荑媛。(荑、此云波曳。譜第曰「市邊押磐皇子、娶蟻臣女荑媛、遂生三男二女、其一曰居夏姫、其二曰億計王、更名嶋稚子、更名大石尊、其三曰弘計王、更名來目稚子、其四曰飯豊女王、亦名忍海部女王、其五曰橘王。」一本、以飯豊女王、列敘於億計王之上。蟻臣者、葦田宿禰子也。)天皇、久居邊裔、悉知百姓憂苦、恆見枉屈、若納四體溝隍、布德施惠、政令流行、䘏貧養孀、天下親附。
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