曲水宴と山部連小楯

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顕宗天皇(十五)曲水宴と山部連小楯

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現代語訳

(即位1年)3月3日に後苑(ミソノ)に行き、曲水宴(メグリミズノトヨノアカリ)を催しました。

夏4月11日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「凡(オオヨ=全ての)その人主(ミカド)の民を勧め励ます方法とは、これ、官を授けることです。国が興る方法は、これ、功を認めて、報償を与えることです。ならば、この前の播磨国司(ハリマノクニノミコトモチ)の来目部小楯(クメベノオダテ)は探し求め、迎えて、朕(ワレ)を挙げた。
小楯の別名を磐楯(イワタテ)といいます。

その功はすばらしいものだ。願うものを、はばかることなく言え」
小楯はかしこまって言いました。
「山官(ヤマノツカサ)を願っています」
すぐに山官に任命して、山部連という氏名を与えて改めました。吉備臣(キビノオミ)を副官として山守部(ヤマモリベ)を民(カキベ)としました。善を褒めて、功を明らかにし、恩に報いて、厚く答える。寵愛(メグミウツクシビ)に優れて、富があり、顕宗天皇に並ぶものがありません。
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解説

曲水宴
急に日付の表記の仕方がおかしい。普通は「夏四月丁酉朔丁未」というように「夏」で「4月」で「丁酉」は「朔(ツイタチ)」のときに、「丁未」の日ですよ。と書くのに、ここでは「三月上巳」となっています。あとから足したのかもしれない。でも足したのであれば、なおさらおかしい。足したのならば、日付を通常の記述にすることは可能なわけで、不自然な記述になったのは、この「記述そのものは事実」だからじゃないかと。つまり、引用した本が違っていたから、書き方が違う、ということじゃないかと。
磐楯?
顕宗天皇・仁賢天皇を発見した小楯の別名が「磐楯」。たったそれだけですが「磐」というと、顕宗天皇・仁賢天皇の父親である「押磐皇子」の「磐」を連想させます。小楯はもともと市辺押磐皇子の関係者だったのかもしれません。偶然ということもあるでしょうけどね。
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原文

三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃拜山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。
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