仁賢天皇(一)諱と即位の経緯

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仁賢天皇(一)諱と即位の経緯

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原文

億計天皇、諱大脚更名大爲。自餘諸天皇、不言諱字、而至此天皇、獨自書者、據舊本耳、字嶋郎、弘計天皇同母兄也。幼而聰頴、才敏多識、壯而仁惠、謙恕温慈。及穴穗天皇崩、避難於丹波国余社郡。白髮天皇元年冬十一月、播磨国司山部連小楯、詣京求迎。白髮天皇、尋遣小楯、持節、將左右舍人、至赤石奉迎。二年夏四月、遂立億計天皇、爲皇太子。(事具弘計天皇紀也。)五年、白髮天皇崩。天皇、以天下讓弘計天皇、爲皇太子、如故。(事具弘計天皇紀也。)三年夏四月、弘計天皇崩。

現代語訳

億計天皇(=仁賢天皇)は諱(タダノミナ)は大脚(オオシ)といいます。
別名を大為(オオス)といいます。他のもろもろの天皇は諱字を言っていませんでした。しかしこの天皇だけ書き記したのは旧本によってです。

字(アザナ)は嶋郎(シマノイラツコ)です。弘計天皇(オケノスメラミコト=顕宗天皇)の同母兄です。幼いころから聡明で優れていて、才能が鋭敏で知識が多かったです。壮年になると慈愛に溢れ、謙恕温慈(クダリナダメヤワラギウツクシビ=謙遜・思いやり・穏やか・愛情)のある人物です。穴穂天皇(アナホノスメラミコト=安康天皇)が崩御したとき、難を避けて丹波国(タンバノクニ)余社郡(ヨザノコオリ)に逃げました。白髪天皇(シラカノスメラミコト=清寧天皇)の即位1年冬11月に播磨国司(ハリマノクニノミコトモチ)山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)が京(ミヤコ)に詣でて、迎えを求めました。白髪天皇は小楯を派遣して節(シルシ)を持たせ、左右(モトコ=側の)の舎人をつけて、赤石に向かわせ、迎えました。

清寧天皇の即位2年夏4月に億計天皇を皇太子としました。
このあたりの事情は弘計天皇(オケノスメラミコト=顕宗天皇)の紀(ミマキ)に詳細に書いてあります。

清寧天皇の即位5年。白髪天皇(=清寧天皇)が崩御しました。仁賢天皇は天下を弘計天皇に譲りました。前の通りに皇太子となりました。
このあたりの事情は弘計天皇の紀に詳細があります。

即位3年夏4月。弘計天皇が崩御しました。
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解説

全体的には顕宗天皇のところの記述をなぞっているだけですが、一点、奇妙なところがあってそれが「諱」です。この諱というのは英語でいうと「True name」で本当の名前という意味になります。

諱は、特別な名前で、王や親しか呼んではいけない「正式」な名前です。その名前を知っているということは、身内か上司であり、その人物を支配しているようなものです。魂としての名前が「諱」です。だから諱というのはあまり書かないわけです。知られない方がいいのですね。

これは中国の風習とされますが、実際には世界各地に似たような風習があり、日本にも古来からあったのではないかと思われます。本当の名前を口にすることが失礼にあたる、だから別名を呼ぶようにした。それが一つの神に複数の名前がある理由だろうと思われます。

それでそんな「口にするのが失礼」な諱が、なぜか仁賢天皇にだけ記述がある。ということは、仁賢天皇の記述は他の天皇とは別系統に書かれた、ということではないかと思います。まぁ、仁賢天皇の記述が別系統というのは分からないでもないのです。仁賢天皇の出自ってちょっと変わっていますから。でも、顕宗天皇と仁賢天皇の記述が「別系統」となると、おかしなことになってきます。

諱が記述されたことは、単なる偶然か。それとも必然か。なんとも。
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