難波小野皇后の不敬・瓜の小刀を立ったまま渡す

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仁賢天皇(四)難波小野皇后の不敬・瓜の小刀を立ったまま渡す

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原文

二年秋九月、難波小野皇后、恐宿不敬、自死。弘計天皇時、皇太子億計、侍宴、取瓜將喫、無刀子。弘計天皇、親執刀子、命其夫人小野傳進、夫人就前、立置刀子於瓜盤。是日、更酌酒、立喚皇太子。緣斯不敬、恐誅自死。

現代語訳

即位2年秋9月。難波小野皇后はもともとから仁賢天皇に対して不敬だったことを恐れて自殺してしまいました。
弘計天皇(オケテンノウ=顕宗天皇)のときに、皇太子の億計(オケ=仁賢天皇)が宴会にいました。瓜を取って食べようとしたときに、小刀がありませんでした。弘計天皇はみずから小刀を取って、夫人の小野(=難波小野皇后)に億計皇太子へと渡すように命じました。夫人は億計皇太子の前に行き、立ったままで小刀を瓜の皿に置きました。この日に、さらに酒を汲み、立ったまま皇太子を呼びました。この不敬によって誅殺されることを恐れて自殺してしまいました。
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解説

不敬
顕宗天皇と仁賢天皇は兄弟で、不遇の時代を過ごし、そして中央へと迎えられても、協力してやってきた。そういうイメージで物語はやってきました。しかし、どうも違う、のかもしれません。

弟が天皇となり、兄は皇太子のときに、弟の夫人によって非常に無礼な振る舞いがあった。過去のその無礼を、権力を握った仁賢天皇によって復讐されるかもしれない。だから自殺したと。

これまでの天皇位を譲り合う、仲睦まじい関係からはちょっと想像できない展開です。

わたしは顕宗天皇と仁賢天皇は実際には対立していた、もしくは並立した朝廷だったんじゃないかと思っています。だから二人の天皇はそれぞれが二つの宮を作った。計4つの宮のうち、仁賢天皇の宮の柱はまだ朽ちていない…と記述があるのですから、相当に立派な宮を作っていた。わたしは、この二人の天皇は宮の大きさで「競争」したんじゃないかと思うんですよ。俺の方がすごい、俺の方がすごいと、作りあった。だから複数の宮ができたし、立派な柱が立った。そういう競争が上記の「不敬」事件の根元にあったんじゃないかなと。
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