日鷹吉士は高麗へ・於母亦兄、於吾亦兄

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仁賢天皇(六)日鷹吉士は高麗へ・於母亦兄、於吾亦兄

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原文

六年秋九月己酉朔壬子、遣日鷹吉士、使高麗、召巧手者。是秋、日鷹吉士被遣使後、有女人居于難波御津、哭之曰「於母亦兄、於吾亦兄、弱草吾夫何怜矣。」(言於母亦兄、於吾亦兄、此云「於慕尼慕是、阿例尼慕是」。言吾夫何怜矣、此云「阿我圖摩播耶」。言弱草、謂古者以弱草喩夫婦、故以弱草爲夫。哭聲甚哀、令人斷腸。)

現代語訳

即位6年秋9月4日。日鷹吉士(ヒタカノキシ)を使者として高麗に派遣し、巧手者(テヒト)を呼び寄せました。

この秋、日鷹吉士は使者として派遣されて後に、女人(オミナ)が、難波の御津(ミツ=港)に居まして、泣いて言いました。
「母にとっても兄(セ)、吾にとっても兄(セ)、弱草(ワカクサ=若草=柔らかいことから優しいの意味)の吾(ア)が夫(ツマ)は…あぁ」
「於母亦兄、於吾亦兄」は「於慕尼慕是(オモニモセ)、阿例尼慕是(アレニモセ)」と読みます。「言吾夫何怜矣」は「阿我圖摩播耶(アガツマハヤ)」と読みます。「弱草」は古くから弱草を夫婦に例えることをいいます。だから弱草を夫(ツマ)とします。

泣く声は甚だ悲しく、人を断腸の思いにさせました。
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解説

高麗との国交
高麗ってのは日本の古代史でいうところの「高句麗」です。後の時代の「高麗」と混同するから、高句麗と書かれます。

それで高句麗から手工芸の技術者を日鷹吉士が連れてきましたよ、というお話とその日鷹に関わる「泣き女」のお話の冒頭がこのページ。

わたしは大和朝廷というのはそもそも「国」というよりは「貿易経済圏」という性質だったと考えています。だから本来敵対しているはずの高句麗や新羅とも、なんやかんやありつつも国交があるのだろうと考えています。

それで日鷹は実際に派遣されたかどうかはともかく、高句麗から技術者を連れてきた。高句麗の技術者が日本に流れてきたのは結局、高句麗では生きていけないからでしょう。日本の方が暖かいし、食料もある。高句麗は寒いし、食料が限られている。また、儒教の国では技術者は冷遇されますが、日本では技術者は重宝されます(高句麗がバリバリの儒教国かはわからないが、三国史記を見る限りは影響を強く受けていると考えるべき)。これは後の時代でも変わりません。それで日本に技術者が流れてきたのでしょう。
母にとっても兄、わたしのとっても兄
おそらくこの「言葉」は泣き女が死者の鎮魂をするために、言っていた言葉なんでしょう。葬式などで泣女が「母にとってもセ」で「わたしにとってもセ」と言って、いかに重要な人物であったかを主張することで、死者を気持ち良く送った。そういう風習があったのでしょう。

この場合の「兄」は「愛する男性」という意味で、本当に兄弟姉妹の「兄」という意味では無いです。

ただし、次のページで「どうして泣いているか?」という説明が入り、泣いている女の事情が説明されます。すると、この「母にとって兄、わたしのとって兄」というのは嘘ではないと分かります。ややこしいな。
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