末多王を捨て、嶋王を武寧王とした

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武烈天皇(十一)末多王を捨て、嶋王を武寧王とした

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原文

十一月、詔大伴室屋大連「發信濃国男丁、作城像於水派邑。」仍曰城上也。是月、百濟意多郎卒、葬於高田丘上。

四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。国人遂除而立嶋王、是爲武寧王。(百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、国人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。)
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現代語訳

(即位3年)11月。大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「信濃国の男丁(ヨホロ=労務の税として集めた男性)を集めて、城の像(カタチ)を水派邑(ミマタノムラ)に作れ」
と言いました。それで城上(キノヘ)と言います。この月に百済の意多郎(オタラ)が亡くなった。高田丘(タカタノオカ=大和志に意多郎の墓は大和国葛下郡岡崎村、現在の大和高田市岡崎にある、と書いてある)に葬りました。

即位4年夏4月。武烈天皇は、人の頭の髪を抜いて、樹の巓(スエ=てっぺんのこと)に昇らせました。この樹の根元を切り倒して、昇った人を落として殺すのを楽しみとしました。

この年、百済の末多王(マツタオウ)は無道で百姓に暴虐をはたらきました。国人はついに王を捨てて嶋王を立てました。これを武寧王(ムネイオウ)としました。
百済新撰によると…
「末多王は無道で、百姓に暴虐をはたらき、国人はともに王を除き、武寧王を立てた。諱(イミナ)は斯麻王(シマキシ)といいます。これは琨支王子(コンキセシム)の子です。つまり末多王の異母兄です。琨支は倭に行きました。そのとき、筑紫嶋に到着して斯麻王を生みました。嶋で引き返したので、京(ミヤコ=ここでは大和のこと)に嶋で生まれました。それで嶋王と名がつきました。各羅(カカラ)の海の中に主嶋(ニリムセマ=国主の嶋)があります。これが王の生まれた嶋です。よって百済人はこの嶋を名付けて主嶋(ニリムセマ)としました。今、考えるに、嶋王は蓋歯王(カフロオウ)の子です。末多王は琨支王の子です。これを異母兄という理由はいまだハッキリとは分かりません。
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解説

毛を抜いて樹に昇らせて、切り倒して殺す
武烈天皇の残虐性は、法治主義を取った武烈天皇を、徳治主義の後世の人の評価した結果だと思います。史実かつ曲解というのが正しい見方ではないかと。
百済の事情
蓋歯王と琨支王子の関係は以下にあります。

日本書紀では蓋歯王が、部下の琨支王子に愛人を託して生まれた子が「嶋王」なんですね。だから嶋王の父は蓋歯王なんです。このページの中で王から引きずり降ろされた末多王は琨支王子の子です。だから、この嶋王と末多王が「異母兄弟」というのは「変」というのが日本書紀の見解です。タネも違えば腹も違う。兄妹でもなんでもない。ただ、この人物関係は百済新撰の引用とあるのですから、朝鮮半島では「異母兄妹」という設定だったんじゃないかと思います。
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