耽羅人が初めて百済国と通う

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継体天皇(十一)耽羅人が初めて百済国と通う

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現代語訳

即位2年冬10月3日。小泊瀬稚鷦鷯天皇(オハツセノワカサザキノスメラミコト=武烈天皇)を傍丘磐杯丘陵(カタオカノイワツキノオカノミサザキ)に葬りました。

12月に南の海の耽羅人(タムラビト=済州島の人)が初めて百済国と通いました。

即位3年春2月。使者を百済に派遣しました。
百済本記によると久羅麻致支彌(クラマチキミ)が日本より来たといいます。これが誰なのかは詳しくは分かっていません。

任那の日本の県邑(アガタノムラ)にある百済の百姓の逃げて、本貫(=本籍)が無くなったもののうち、3・4世代過ぎたものを抜き出して、百済に移して、本貫につかせました。

即位5年冬10月。都を山背(ヤマシロ)の筒城(ツツキ=山城国綴喜郡)に移しました。
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解説

耽羅
タムラとかタンムラ・トムラとか読み方は定まっていませんが、済州島の民族を指しています。問題は「南の海の」と書いてあって、この文章が「朝鮮の本(もしくは任那の本)」からの引用だろうと思われることです。
魏志倭人伝でも朝鮮半島の南部には倭人が住んでいたし、日本書紀によると任那には日本府が置かれていたわけで、任那は日本人が住む地域で当たり前だったよう。その「任那の南の海」という意味なら十分ありうる。

これはつまり、これまでの記述の中にも他の本からの引用があっただろうということと、「元ネタの引用」という意味では厳格ということです。単に朝鮮の本(もしくは任那の本)を参考にしているだけならば「南の海の」という表現はせず、「西の海」とか「百済・任那・朝鮮の南」という表現になるはずです。
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原文

二年冬十月辛亥朔癸丑、葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵。十二月、南海中耽羅人、初通百濟國。

三年春二月、遣使于百濟。百濟本記云「久羅麻致支彌、從日本來。」未詳也。括出在任那日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者、並遷百濟附貫也。

五年冬十月、遷都山背筒城。
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