任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を百済が請求

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継体天皇(十二)任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を百済が請求

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現代語訳

即位6年夏4月6日。穂積臣押山(ホズミノオミオシヤマ)を派遣して百済の使者としました。それで筑紫国の馬40匹を与えました。

冬12月に百済は使者を派遣して調(ミツキ)を献上しました。別に表(フミ=文)を献上して任那国の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アロシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)の4つの県を請求してきました。哆唎国守(タリノクニノミコトモチ)の穗積臣押山は申し上げて言いました。
「この4県は近く百済に連なり、日本と隔たっています。朝夕に通いやすく、鶏・犬の種類も分けられないくらいに似ています。今、百済に与えて合わせて同じ国とすれば、固い策略で、これより優れた策は無いでしょう。しかし、たとえ県を与えて国を合わせても、後々には危険になるかもしれません(混乱し戦乱の状態になる)。いわんや、異場(コトサカイ=おそらく国境)となれば、幾年(チカキトシ)すら守れるかどうか」
大伴大連金村(オオトモノオオムラジカネムラ)は詳細にこの言葉を得て、策略が同じであると天皇に申し上げました。すぐに物部大連麁鹿火(モノノベノオオムラジアラカイ)が勅宣(ミコトノリノタマウ=天皇の言葉を伝えること)の使者としました。
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解説

百済が4県を求める
個人的な考えですが…
日本は共和国だった。小さな国々が集まり、そこで貿易をする。その貿易航路を確保するために、組織されたのが大和朝廷であり、そのトップが天皇だった。天皇はそういう地方の氏族によって支えられていた。

日本にとって所属する国に強弱はあっても大小は無かった。貿易をしてお互いにウィンウィンの関係であればよかった。武力も持っていたが、その武力は「揉め事の解決」という意味合いが強く、また蝦夷といった異民族にも頼っていた。

日本にとって百済はたくさんある国の一つだった。百済も最初はそれで良かった。貿易をして利益を得て、発展していけばよかった。ところが、日本は百済を中国の中継地と考えていたので、百済に中国の「儒教の文化」が入ってくると次第に変わっていった。

儒教の「国」という概念は、王と諸侯と臣下の上下関係が厳しく、日本的な「横のつながり」とは全く違った。儒教の影響を受けた百済は、中国のように近隣諸国を「属国」にしたいと考えるようになった。それが、この4県割譲の請求だったのでしょう。

現代でもそうですが日本は揉め事を嫌う。4県を与えることで百済がおとなしくなるのであれば、それで手を打てばいいじゃ無いかと大伴金村は主張し、それが通ることとなった。ところが「儒教」はそんなお優しい思想ではなかった。

このあたりは現代の韓国と日本の関係に近いですね。
しかし、たとえ県を与えて国を合わせても、後々には危険になるかもしれません
この表現って変なんですよね。現在の考えだと国が大きくなれば、国力が大きくなり、日本にとって危険になる、と考えるでしょう。だから4県は渡すべきではないのですよ。普通の考えならば。

この表現が成立するには、日本人がなにより「貿易路の安全」を重んじていたという前提が必要なんですよ。4県は日本から遠い、だから管理が難しい。百済に併合して管理させて、貿易路が安全になるならば割譲した方がいいだろうと。そういう考えがないとこの表現は有り得ない。

つまり大和朝廷にとって「領地」という考えは薄かった。領地よりもともかく貿易路の確保だった。それが大和朝廷の利益であり、大和朝廷に参加する国々の利益だった。
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原文

六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍賜筑紫國馬卌匹。冬十二月、百濟遣使貢調、別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰「此四縣、近連百濟、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別。今賜百濟合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危、況爲異場、幾年能守。」大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。
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