姐彌文貴将軍と洲利卽爾将軍・五経博士の段楊爾

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継体天皇(十五)姐彌文貴将軍と洲利卽爾将軍・五経博士の段楊爾

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原文

七年夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利卽爾將軍、副穗積臣押山(百濟本記云、委意斯移麻岐彌)貢五經博士段楊爾、別奏云「伴跛国、略奪臣国己汶之地。伏願、天恩判還本屬。」秋八月癸未朔戊申、百濟太子淳陀、薨。

現代語訳

即位7年夏6月。百済は姐彌文貴将軍(サミモンクイショウグン)・洲利卽爾将軍(ツリソニショウグン)を派遣して穂積臣押山(ホズミノオミオシヤマ)…
百済本記によると「委(ヤマト)の意斯移麻岐彌(オシヤマキミ)」と言います。

に沿えて五経博士(ゴキョウハカセ)の段楊爾(ダンヨウニ)を献上しました。別に申し上げて言いました。
「伴跛国(ハヘノクニ=朝鮮半島の国の名前=慶尚北道星州付近=任那北部)はわたしめの国の己汶(コモン=地名)の土地を略奪しました。伏して願わくば、天恩(ミウツクシビ)により判断して、本属(モトツクニ)へ返還してください」

秋8月26日。百済の太子(コニセシム=朝鮮での皇太子)の淳陀(ジュンダ)が亡くなった。
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解説

五経博士
五経とは儒教の経典の「詩・書・礼・易・春秋」のことで、・書・礼・易・春秋はその先生。よってこれによって「儒教が日本に来た」ということになっています。これが史実かというと、ちょっと怪しい。なぜなら、儒教的な考えはこれ以前から記述がある。無論、それは「記述は後世によって書かれたのだから」と言ってしまえばいいのですが、それなら全ての記述に「儒教的な」部分が見られないとおかしい。にも関わらず、神武天皇の時代の記述には儒教的な部分が見られないのだから、辻褄が合わない。

あと、応神天皇の時代に「千文字」という漢字の「いとはにほへと」のような基礎的な漢字を覚えるテキストが渡来したことになっているんですが、千文字というのが応神天皇の時代には成立しておらず、どうやら「後付け」っぽいのですね。そう考えると、この五経博士もどの程度信用していいのか…
こういうことじゃないか?
日本は共和国だったようで、中央が地方を従えていたのではなく、独立した国家である地方の国々を大和朝廷という中央が束ねているというか、利害調整をしていたというのが正しい姿だと思います。つまり、地方は中央に隷属しているんじゃなく、かなり独立していた。だから、海外貿易を通じて地方へはかなり早い段階で儒教は伝わっていて、それが細切れに他に地域にも伝わった。それがどこから伝わったのかというと、おそらくは台湾・沖縄ルートだと思われます。

だから日本書紀の中にも早くから儒教的な考えが見られるわけです。でも日本は伝統的に文化を細切れにしていいとこ取りするもので、儒教をまるごと受けれなかった。だから断片的な影響しか無かった。そこで、この時代には実際に「五経博士」なる儒教の専門家を呼び寄せて儒教の研究を始めた。これには百済や新羅が儒教に傾倒して扱いづらくなったことが原因の一つじゃないかと思います。

つまり、断片的で非公式な儒教の伝来(おそらく3世紀)と、完全で公式な儒教の伝来(5世紀〜6世紀)の二回に分けて伝来したのだろうと思います。それが五経博士の記述の意味ではないかと。
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