新羅王佐利遲は久遲布礼を百済は恩率彌騰利を派遣

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継体天皇(三十五)新羅王佐利遲は久遲布礼を百済は恩率彌騰利を派遣

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現代語訳

この月(即位23年夏4月)。使者を派遣して己能末多干岐(コノマタカンキ)を国に送りました。任那にいた近江毛野臣(オウミノケナノオミ)に詔(ミコトノリ)して
「任那王が入っていることをよく尋ねて聞いて、新羅と疑い合うところを和解させろ」
と言いました。
それで毛野臣は熊川(クマナレ=慶尚南道昌原郡熊川面)に泊まって…
ある本によると任那の久斯牟羅に泊まったといいます。

新羅・百済の二つの国の王を呼び寄せて集まりました。新羅の王の佐利遲(サリヂ=法興王?)は久遲布礼(クヂフレ)を派遣し
ある本によると、久礼爾師知于奈師磨里(クレニシチウナシマリ)といいます。

百済は恩率彌騰利(オンソチミドリ)を派遣して、毛野臣のところに行って集まって、二人の王は自ら来ませんでした。
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解説

新羅王は久遲布礼を派遣したとあります。久遲布礼は臣下の誰かなんです。荒宗という人物ではないかとも言われます。久遲布礼で「階級名」ということもなきにしもあらずではないかと。

次に百済王は恩率彌騰利を派遣しています。この「恩率」は役人の階級名で百済の官位16階の三番目です。

「王が来いよ」と言ったのに、王が来ないで役人が代理で来たわけです。まぁ、毛野臣の面目丸潰れですよね。儒教では上下関係が大事で、上の言うことは聞かなくちゃいけないのですが、下の言うことは聞かない。いや、下の言う事を聞いたら、下だと認めることになります。これでは権威を損なう。だから簡単に日本のいう事を聞け無い、というのもありますが、仮にですよ、王がノコノコと出向いて行って、相手が代理の役人だったらどうですか? 笑い者ですよ。だから新羅も百済も簡単には王が出向けなかった。そして、この儒教的なメンツの考えを日本はまだ理解できていなかった。

日本は「和」の国です。争いごとは避けたい。そういう感覚があり、日本人にとって揉め事を解決する人間というのがリーダーです。ところが儒教では、ちょっと違う。上下関係を維持して、上であることが大事です。

おそらく新羅と百済は儒教国となってしまった。中国という強大な儒教国との間で揺れていて、儒教に振れた時期だったのかもしれません。日本としては揉め事を鎮静化したかった。それで出張ったのに、行ってみると、本気で解決する気が無い。そういう文化の違い(儒教思想vs和)と、温度差があった。
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原文

是月、遣使送己能末多干岐、幷詔在任那近江毛野臣「推問所奏、和解相疑。」於是、毛野臣、次于熊川(一本云、次于任那久斯牟羅)召集新羅・百濟二國之王。新羅王佐利遲、遣久遲布禮(一本云、久禮爾師知于奈師磨里)、百濟、遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。
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