藍野陵に葬る・百済本記の異説

MENU
TOP>継体天皇(日本書紀)>継体天皇(四十三)藍野陵に葬る・百済本記の異説

継体天皇(四十三)藍野陵に葬る・百済本記の異説

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

即位25年春2月。継体天皇は病気が重くなりました。7日に天皇磐余玉穂宮(イワレノタマホノミヤ)で崩御しました。年齢は82歳です。

冬12月5日。藍野陵(アイノノミサザキ)に葬りました。
ある本によると天皇は即位28年に崩御したといいます。しかしここに25年に崩御したというのは百済本記を取って文(フミ)を作ったからです。その文に伝えられるのは、
「太歲辛亥3月に軍が進んで安羅(アラ)に至り、乞乇城(コツトクノサシ)を作りました。この月に高麗の王の安(アン)を殺しました。また聞くところによると、日本の天皇及び、太子、皇子もともに崩御したといいます。これによって言えば、辛亥の年は25年にあたります。後に勘校(カムガエム=照らし合わせて間違いを訂正する)者は分かっていない。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

混乱?
28年に崩御したという本と25年に崩御したという本があり、25年の本が「百済本記」だというわけです。この話では百済本記の説が採用されて25年になっているのですね。

ところで継体天皇が無くなった時期が「即位25年」だとすると、安閑天皇の元年が太歳甲寅で、継体天皇と安閑天皇との間に「2年」の空白期間が存在することになります。これがもしも即位28年ならば、空白期間は無いので自然(細かい計算はしてないけど)。

それが25年説を採用したのには、やっぱり理由があるのでしょう。別伝にある「天皇と太子・皇子が死んだ」というのは宣化天皇が死んだときに皇后と子を合葬したという記述があることから、それを指しているとする説もあるのですが、「皇后と子」と「太子・皇子」では全然意味が違う。特に太子は「世継ぎ」ですから、これが絶えるということは血統が絶えるということになります。
スポンサードリンク

原文

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集